Erbarme dich, mein Gott

ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉 (岩波文庫)』を読み始めました。また自然と聖書を開くことになります。

ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(『新約聖書』マタイの福音書

これは「ペテロの否認」と呼ばれる有名なシーンです。ヨハン・セバスチャン・バッハは、このドラマをモチーフに『マタイ受難曲』の中で、アリア「憐れみ給え、わが神よ(Erbarme dich, mein Gott)」を書きました。ときに様々な感情が複雑に入り混じる人間の本質を描いているようにも聴こえます。


このシーンは、僕が最も好きなシーンです。『ユダの裏切り』のドラマよりもずっと心に突き刺さるものがあります。このペテロの号泣のシーンがなかったら、それほど聖書には興味を持たなかったかもしれません。


茂木健一郎さんは『脳のなかの文学 (文春文庫)』の「見られることの喜びと哀しみ」の中で、他者の視線について言及されています。

人間は他者との関係性のうちに愛や共苦といった生きる上での根源的な価値を見出す一方で、現実の、あるいは想定された他者の視線を巡ってぐるぐると回る、そんな心理の泥沼に陥ることもある。


ペテロも自分の心の中にそっと他者の視線を忍び込ませておかなかったとしたら、激しく泣くこともなかっただろう。


しかし、
他者の視線(見る/見られること)が不可分に混ざっている場合でも、それは無垢なるものの汚染ではなく、むしろ地上の全てを生み出すエラン・ヴィタール(生命の跳躍)の一つの現れではないか。



人間は他人の視線からは本質的に免れえない存在なのかもしれません。例えば、自分でもこのようにブログを書いていることは、これでも(?)他人から見られることを前提にしている部分があります。


もっと高邁な理想を持った方のことを想像してみると、例えば、オペラ歌手でも「私のそばには女神様がいると信じている」と仰る方もおられます。


他にもこんな話も聞いたことがあります。ドイツにケルン大聖堂というゴシック様式の建築物があります。高さは157mで、京都タワーの131mよりもまだ高いです。この塔は頂上部分にまで細かい彫刻がなされており、地上から肉眼では到底その模様を認識することができません。では、なぜ人の目に見えない部分にまで彫刻を施す必要があるのか。この質問に対して、芸術家は人間には見えなくても神には見えていると答えるのです。


他者の視線とは、元々は父親あるいは母親のまなざしだったのかもしれません。しかし、人によっては、特に芸術家と呼ばれるような人たちにおいては、身近な人の視線から徐々に神の視点へと変わっていく場合もあるのかもしれません。