9.11に思う

不謹慎なことに、まことに不謹慎なことに、毎日毎日平凡な日々が続くと、台風でも来ないかなと思ったりもします。戦国時代を生き抜いた英雄の話を見ていると、かっこいいと思ってきます。この日本は平和ボケしているなと感じる度に、クーデターでも起こらないかなと思ってきます。ふやけた日常よりも、エキサイティングな非常時に生きたいと妄想するのは、僕だけでしょうか。特に10代の頃は、そういう傾向が強かったのも事実です。


そんな時に起こったのが9.11同時多発テロでした。テレビでツインタワーの崩壊を見ました。現実のものとは信じられませんでした。それと同時に、想定以上のショックを受けるはずの出来事が現実に起こっているにもかかわらず、どうしてこんなに現実味を感じないのかと、そのことにひどく傷つけられました。


森一郎著「ニーチェと戦争論」を読みました。読解することにより、少し勉強したいと思います。


 ニーチェの哲学的見地にもとづくと、近代国民国家が軍隊を常備軍として保有していることは、道徳的不整合、つまり不誠実さが見出されます。というのも、「それは自国には道徳性を、隣国には不道徳性を取っておくことを意味する」からです。


著者は、ニーチェの平和論の特質を、平和を戦争の反対、その欠如態と見るのではなく、むしろ戦争の一環つまり「勝利」ないし「戦果」と見立てている点にあると解釈しています。「勝利」とは、自発的に軍隊を廃棄してしまう気前よさだと言及しています。その潔さこそ最も有効な「武器」であると。


一方で、ニーチェにより「現実的平和」の基礎をなすものとして「心の平安」が問題にされています。「心の平安」とは、死の恐怖に駆り立てられた自主防衛的な安全第一主義(心の不和)の対極にあるもの、相手に悪意をなすりつけるよりは、いっそ信頼された相手に殺されたほうがましという、超潔癖な精神のことです。


ニーチェの「心の不和」を潔いとしないこの倫理観と、ソクラテスのそれとは親和性があると考察されています。ただし、「ぶざまな復讐をしない」という新しい価値を掴みとる以上、弱さを正当化するという「ルサンチマン」の論理には陥ってはいないとされます。


ソクラテスニーチェ的な自分の「心の平安」の選択は、まさに自己本位な態度であると言えます。被害者への同情に基づく、他者本位の「道徳」とは異質のものです。


このような超潔癖性の倫理観は、綺麗事過ぎて、無意味だとさえ批判を受けるでしょう。むしろ現実の世界は、正当防衛のためには核兵器さえ容認される可能性も孕んでいます。


ニーチェについて語れるほど知識はないのですが、イメージを一言でいうと「ロマンティスト」です。本音では機械化していく世界に、生命が無意味化されていく近代社会に、耐えられなかったのではないだろうかと思います。そのことは上記の論文でも感じられます。ロマン主義に裏付けられたニヒリズムを感じます。


その一方で、徹底してニヒリズムな人物がいます。それは、ドストエフスキーの『悪霊』の中の主人公スタグローギンです。読者の身が凍りつきそうなくらい酷いことをやってしまいます。ドストエフスキーは、この悲劇の男について、「ロシア的な人物であり、同時に典型的な人物です」と語りました。この男は、極度の観念癖によって大地から切り離されたロシア知識人たちの象徴であるとも分析されています。


ドストエフスキーの小説におけるこの場合における「無神論」の意味としては、「神のまなざし」を奪うという人間の傲慢さがあるのではと思います。「神のまなざし」を奪うとは、他者の痛みに対して無関心になることと言えるのではないでしょうか。


しかし、現代のメディアが発達し、インターネットという仮想の場に人間の意識が部分的に切り出されたかのように現れる時代において、この自分を含め、果たして誰をロシア的でないと言う事ができるのかと思えてきます。


ニーチェ的な意味での「神」はもとより、ドストエフスキー的な「神のまなざし」さえも失われつつあるこの時代に、いかにして人間の生命への無関心傾向を抑制することができるのでしょうか。


いや、むしろ、もっと徹底したニヒリズムを経由しなければ見えてこないものでしょうか。ソクラテスニーチェが身をもって示したように。スタヴローギンを通じて描かれたように。