一蓮托生

一蓮托生(いちれんたくしょう)とは、死後、極楽の同じ蓮華の上に生まれることです。法事でお坊さんの話で聞きました。最近、この言葉は、主に、悪い結末が予想される時に使われることが多いようですが、本来は、上記のような意味です。


自分は説教じみたことをいえる様な立場ではありませんが、仏教における蓮の花の話はとても好きです。その理由の一つは、蓮は泥池に咲くことにあります。綺麗な花に視線が向かうのは人の心理だと思います。しかし、よくよく考えてみると、その花を生み出したのは泥池です。


あるお坊さんが、「私は蓮の花になるより、むしろ泥になりたい」と言ったのを何かの本で読んで、心が洗われる気持ちになったことがあります。どんな人の人生においても泥池のような役割を果たしてくれた人がいる(いた)のではないだろうかと思いました。泥となった人は、結果的には花になれず救われなくても、泥のような存在であり続けることを願い、体現化していくその人の行為そのものに徳が宿るような気がするのです。