仏像の見方がわかる小事典 / 松濤弘道 (2003年)

仏像の見方がわかる小事典 (PHP新書)
★目次
序章 仏教の中における仏像の意味
第1章 仏像の形と心
第2章 さまざまな仏像の見分け方
第3章 あなたを守る本尊仏とは


★先日、鎌倉時代初期の仏師・運慶の作とみられる「大日如来像」がオークションで、1437万7000ドル(約14億円)で落札されたことはまだ記憶に新しいのではないでしょうか。また最近ではチベットの暴動の事件に関して、色々と考えさせられるものがあります。


自分も思い返せば、ここ10年でけっこういろんな寺社を巡り、さまざまな仏さまを拝んできたはずなんですが、不謹慎にもほとんどのそのお顔もお姿も覚えていません。そこで、せっかくなのでこれからは、仏像もその姿形を観て、菩薩か如来かくらいはわかるようになったら楽しいかなぁなんて軽い気持ちで本書を手に取りました。しかし、本書著者の主張を読み、少しばかり反省させられました。なぜなら、当たり前のことなんですが、本来、仏像とは信仰の対象であり、たんなる鑑賞物ではないからです。本書でも指摘されているように、自分も特にそうですが、現代の日本人は、目に見えないものに対して興味が希薄なのかも知れません。


これは個人的な感想ですが、日本人以外の海外の人(もちろん一部の日本人、アジア人、中東の人など世界中の人を含み得るが)で宗教を信じている人たちを、直接、あるいは間接的に見ていると、宗教がその人の日常に非常に密接に関わっていることに、ひどく感動を覚えます。倫理の規範がしっかりしているように見えます。それゆえに、色んな問題(摩擦)が生じえるんだと思いますが。一方で、本書の冒頭でも言及されている通り、最近、欧米の識者の間では、過去1300年間にわたり、多民族、異教徒間の共存共生をはかってきた日本の歴史的事実に注目し、その仲介的役割を果たしてきたと思われる仏教の持つ寛容の精神を再認識する機運が高まっていることも見逃せません。


日本で見られる仏像をその姿形から大別すると、「如来部像」「菩薩部像」「明王部像」「天部像」「垂迹(すいじゃく)部像」および「羅漢部像」の6種類にわけられるそうです。


端折って説明します。
如来」・・・仏像の原点、中心的存在。仏教の開祖・釈迦の像。釈迦如来阿弥陀如来、毘盧舎那如来大日如来薬師如来など。
「菩薩」・・・介添役の仏像。大乗仏教では仏に成りきらずに、他を救うためにその立場にとどまり続けている。弥勒菩薩聖観音、千手観音、文殊菩薩地蔵菩薩など。
明王」・・・鉄槌を下す仏像。無知や傲慢さから目覚めさせるために、怒りを発して鉄槌を加え、力ずくで救いとる。不動明王降三世明王孔雀明王など。
「天部」・・・宇宙自然の世界を表す。梵天帝釈天、四天王、毘沙門天、吉祥天、仁王、大黒天、閻魔天など。
垂迹」・・・神道と仏教が融合した日本独自の仏像。蔵王権現、阿修羅、金毘羅大将など。
「羅漢」・・・実在した仏弟子の仏像。仏教の修行をした尊敬に値する人という意味。十六羅漢、五百羅漢、達磨、鑑真、聖徳太子など。


そして、さまざまな仏がいる理由としては、大乗仏教では、すべての人が悟りを開いて救われることを目的としているため、「仏」とは歴史的人物である釈迦だけでなく、それ以外にも悟りを開いて目覚めた人たちがいるとして、釈迦に準ずる数多くの仏たちを輩出し、その像をまつっているからと説明されています。この本をちょっと読んだだけでも、仏像の背後に秘められた仏の心を読みとるのは、一朝一夕ではできないものなんだと感じさせられました。


最後に、ちょっと面白いことも知りました。古くから天文学が発達していた中国では、その年生まれの人の性格を動物になぞらえてあてはめました。いわゆる、十二支ですね。さらに、これが日本に伝来してから、仏・菩薩に十二支の動物をあてはめ、その年のうまれの人の守り本尊として信仰されるようになったことが紹介されています。ちなみに、自分の干支の守り本尊は「大日如来」とのことです。例えば、岐阜・横蔵寺像、京都・東寺講堂像、奈良・円成寺像(運慶作)、国宝。奈良・唐招提寺像、和歌山・金剛峯寺像などが有名なようです(作例はwikipedia参照)


それから、付け加えとして、やっぱりお堂の中では、撮影は絶対しないようにしようと思います。これは、お堂内は特に神聖な場所であるというのもありますが、フラッシュなどをたくと、仏像や絵画を劣化を進めることになりかねないからです。学芸員の資格をとるための講義でも習ったはずなんですがね。




奈良の大仏(毘盧舎那如来
毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)とは、サンスクリット語の音写で、「光明あまねく照らす」という意味。