親鸞をよむ / 山折哲雄 (2007年)

親鸞をよむ (岩波新書) [ 山折哲雄 ]
★目次
序章 ひとりで立つ親鸞
第1章 歩く親鸞、書く親鸞ブッダとともに
第2章 町のなか、村のなかの親鸞道元とともに
第3章 海にむかう親鸞日蓮とともに
第4章 弟子の目に映った親鸞唯円清沢満之
第5章 カミについて考える親鸞―神祗不拝
第6章 親鸞をよむ―日本思想史のもっとも戦慄すべき瞬間
第7章 恵信尼にきく―日本思想史の背後に隠されていた「あま・ゑしん」の素顔


親鸞と言えば、『歎異抄』というイメージがありましたが、ご周知の通り、この書は弟子唯円による聞き書です。それに対して『教行信証』という親鸞自身が自分の手で書いた著作があります。本書「親鸞をよむ」は、この『教行信証』に焦点が当てられています。
親鸞の主著『教行信証』の根本テーマは、父殺しの罪を犯した悪人ははたして宗教的に救われるのか、という問題であると言われます。親鸞以前の仏教の考えでは、阿弥陀如来の救済力は、「五逆」と「誹謗正法」の罪を犯した者の身には及ばないという、いわゆる除外規定が存在していました。しかし、親鸞は、この除外規定は、はたして真か偽か、阿弥陀如来の救済力は有限か、無限か、人間の根本悪は、阿弥陀如来への信によってはたしてのり越えられるのか、不可能なのか、と思索を重ねました。この問いに真っ向から取り組んだ葛藤のあとがこの『教行真証』という作品を生み出したと言われます。そしてその最後の解答として、父殺しが救われるためには、「善知識」と「懺悔」の二条件が決定的に重要であると、末尾に述べられています。すなわち、「善知識」とは、善き教師、そしてその師について自己の罪を深く反省することが「懺悔」であると説明されています。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が世に出る600年も前に、アジアの東の果ての日本で親鸞という“ひとり”の僧侶によって「父殺し」の問題が取り扱われたというのは大変興味深いです。親鸞にとって「父」とは、何の象徴であったのだろうか、当時鎌倉時代初期の日本の思想界はどんな状態だったのだろうか、と考えてしまいます。


親鸞聖人像(龍野圓光寺