イエス巡礼/遠藤周作(1995年)

イエス巡礼 (文春文庫)


★目次
受胎告知―フラ・アンジェリコ「受胎告知」
クリスマスの夜―マサッチョ「東方三賢王の礼拝」
ナザレのイエス―ラトゥール「仕事場のイエスとヨセフ」
ヨハネの洗礼―ピエロ・デラ・フランチェスカ「キリストの洗礼」
悪魔の誘惑―コンラート・ヴィッツ「聖ペトロの奇蹟の漁獲」
カナの結婚式―ゲラルド・ダヴィッド「カナの婚宴」
ガリラヤの春―ルドン「キリストとサマリヤの女」
北方への流浪―ジョヴァンニ・ベリーニ「イエスの変容」
エルサレム入城―ジオット「エルサレム入城」
最後の晩餐―ティントレット「最後の晩餐」
ゲッセマネでの逮捕―ヴァン・ダイク「ユダの裏切り」
ペトロの否認―テルブルッヘン「聖ペトロの否認」
諸兄宣告まで―ボッス「この人を見よ」
ゴルゴタの丘―ベラスケス「十字架のキリスト」
エスの復活―ルオー「郊外のキリスト」


★十代のころ遠藤周作氏の小説がとても好きで、「沈黙」「白い人・黄色い人」「海と毒薬」などいろいろ読んだ記憶があります。


本書「イエス巡礼」は画文集で、イエスの一生にまつわる名画を受胎告知からイエスの復活まで15枚取り上げられ、遠藤周作らしいイエス観が語られています。


遠藤周作氏は本書において、「ペトロの否認」は聖書の中で何より感動する名場面だと述べています。ペトロ(本名:シモン)とは、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダーであり、磐(ペテロ)と名づけられるほどイエスが愛した弟子です。遠藤氏の推論では、ペトロをはじめイエスの弟子たちが顔のばれている官邸に出かけたのは、大司教カヤパから助命の約束をとりつける目的があって、イエスを否認したのではないかとされています。すなわち、身近な人々に対して自分はイエスの仲間ではないと言っただけでなく、衆議会の面々に「イエスを否認した」ことを象徴しているのではないかということです。この推論が正しいか否かは別としても、ペトロがカヤパの官邸でイエスを否認したのは、聖書の中に記されていることです。


テルブルッヘンの描いた「聖ペトロの否認」の、心理的葛藤を強調する光と闇の対比を見ていると、その光景がより具体化される思いがします。ペテロはイエスを否認した後、鶏が三度鳴いたのを聴いて号泣しました。


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ご周知の通り、イエスは「最後の晩餐」で、ユダの裏切りとペトロの離反を予言していたのです。

「はっきりと言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マタイ26:34/新共同訳)



エスは愛の神と神の愛とを説きましたが、ユダはこの現実には神の沈黙しかないと主張しました。そして、ユダたちは、イエスへの幻滅とともに席を立ちます。残った弟子のうちペトロは興奮して叫びます。

「たといみんながあなたにつまづいても、わたしは決してつまづきません。」(マタイ26:33/新共同訳)



このような言葉をユダの背中にぶつけるペトロですが、イエスは人間の弱さをよく知っていたと遠藤氏は言います。もちろん、ペトロの弱さもです。


弟子の裏切りとしては、銀三十枚という僅かな金を受け取ったユダの裏切りがクローズアップされている感があります。しかし、聖書ではイエスの裁判の間弟子たちがどこに隠れていたか、何をしていたかはまったく書かれておらず、むしろ、後々弟子たちがエルサレムに戻ってイエスの教えをひろめようとしたことが黙認されており、けっこう謎が多いんです。


自分も聖書の中では、ペトロの否認のシーンは一番好きで、ユダやペトロの心情もわからないでもない気がします。これは、どんな人間の行動にも、他者のまなざしが入り込んでいるということでしょうか。他者とのやりとりの中で、優しい視線が自分に向けられていたことに気づくのは、事が終わってからのことが多い気がします。そんなとき、言葉につまるのは、なぜでしょうか。