悪と往生 -親鸞を裏切る『歎異抄』/ 山折哲雄 (2000年)

悪と往生―親鸞を裏切る『歎異抄』 (中公新書)
★目次
1 悪と罪
2 「宿業」と「不条理」
3 裏切る「弟子」
4 唯円の懐疑
5 唯円とユダ
6 正統と異端
7 個とひとり
8 「親鸞一人」の位相
9 「自然」と「無上仏」
10 唯円の作為
11 住生について (I)
12 住生について (II)


★『歎異抄』は、師の親鸞のことばをその弟子である唯円聞き書きしたものであることが定説となっています。『歎異抄』の本文は、前半と後半部分に分けることができ、その間に、唯円の本音とも読み取られる述懐文が挟み込まれています。すなわち、”最近、門弟たちのあいだに「異議」を唱えるものが増えてきた。嘆かわしいことなので、それらの「異議」をつぎに列挙して、その正しくない理由を述べてみようと思う”と記してあるのです。しかしながら、その反面、最末尾には、”この文章は誰にでも見せるようなものではない”と記してあります。このように、歎異の声を挙げながらも、一方で隠そうとする、唯円の真意とは何だったのだろうかと、親鸞唯円の師弟関係に焦点をあてながら洞察を進めていくのが本書『悪と往生』の主題です。


 唯円は、この書を、『故聖人の仰せ』文集とはせず、『歎異抄』としたことから、自分自身の作品へと脱皮させてしまっています。このことより、師、親鸞の教えに対して恭順な態度で接しようとする謙虚な姿と、一方で「故聖人の仰せ」を高らかに掲げ、「異端」の人びと・「異端」の弟子たちに真っ向から立ち向かっていこうとする辛辣な態度といった唯円の二重性が浮かび上がってきます。さらに、第一の読者として師、親鸞を想定していたのではないかとも憶測されています。”私が親鸞の最も正統なる後継者であり、「真信」の理解者である”と主張する姿は、まるで聖書の中のユダの姿のようだとも言及されています。師、親鸞は、『異』を『歎く』ことを、空しく、恐ろしいことだと気づいているにも拘らず、弟子、唯円は、むしろ『異』を積極的に糾弾しようとしています。


 一方で、親鸞の師、法然との師弟関係を見てみれば、そこには「殺仏殺祖」の論理が存在しており、その関係は、師に対する弟子の裏切り行為とは本質的に異なっていると考えられます。親鸞は、法然における師の形骸を打ち破って、その内部世界に突入していたとも言われます。


 親鸞は、「ひとり」であったと言われます。「ひとり」とは、たんなる孤独という意味ではなく、また西洋由来の「個」とも意を異にするでしょう。十全的な意味での「ひとり」と言えるのかもしれません。


 結局のところ、唯円は、親鸞の宗教体験の本質をその皮膚感覚にまで肉薄して読み解こうとしていなかったのではないだろうか、というのが本書の結論です。それは、親鸞の主著『教行信証』の中の重要なモチーフ「海」の言葉が、歎異抄ではただ1回だけ、しかも言葉としてだけ挿入されているに過ぎないことからも伺えます。


 本書『悪と往生』を読むと、現代に対する何かの警告であるようにも感じられます。本書が出たのは、2000年であり、あの事件に社会が震撼し、その動揺からいまだ落ち着かない時期だったのもあるのかもしれません。しかし、今になっても、本書『悪と往生』の批判は、まったく色あせていないように感じられます。


個人的には、「ひとり」の意味にとても興味を持ちました。日本語特有の文法の性質のためか、主語(主体)の”我”(英語で言えば、"I")というのも、自然とどこかに消えてしまっているような錯覚に陥ります。師と弟子の二人の濃密な関係にあっても、「ひとり」、仏の眼前にあっても「ひとり」、同胞の中にあっても「ひとり」、生まれてくるときも、往生するときも「ひとり」。人間とは本質的には、「ひとり」の生き物なんでしょう。