たつの市御津町の黒崎地区自治会発行「くろさきの歴史(2000年)」を参考に、屋台の変遷や富嶋神社に関する記述部分を抜粋・要約しました。
黒崎の地名の由来
塩浜の釜屋から出る黒い煙が御崎にたなびいたことから黒崎と呼ばれるようになったと言われている。
富島神社の由来
1333年頃、播磨国の守護職赤松則村が本拠を黒崎基山山系の武山城を築き、武山城の守護神として、八幡大神を奉祀した。以来、赤松一族の信仰も篤く、後にはこれが黒崎、釜屋の産土神として村人たちに信仰されてきた。
一方、苅屋の北方に霊験あらたかな水の神、貴布祢大神が祀られており、およそ1,100年前、嵯峨天皇が例幣使を立てて雨乞い祈願をされたとある。当時は社殿も荘厳で立派に栄、この水の神である貴布祢大神は苅屋、浜田の産土神として崇め信仰されてきた。
龍門寺開基の盤珪国師も氏神として、常々敬仰されていたとのことである。盤珪国師の尽力により1664年に、飛島の土地を申し受けて社殿を営み、武山八幡大神と貴布祢大神を合祀して現在の富嶋神社が創設された。
西ノ丁と東ノ丁共有の布団太鼓があった。一方、北ノ丁には擬宝珠屋台があった。また、38年以前から西ノ丁と東ノ丁屋台蔵には、祭りに出していなかった壇尻1台と獅子があった。
明治38年から昭和の始めにかけて、黒崎地区では屋台を一台に統一するため、布団か擬宝珠かで話し合ったが、折り合いがつかず、屋台に関係ない檀尻を改修して出したり、他地区から屋台を借りて練り出した年もあったとか・・・
当時議論の的は、布団屋台と擬宝珠屋台とでは、富嶋神社宮入りの順が異なり、布団屋台は1番、擬宝珠屋台にすれば、東釜屋、黒崎の順で2番目になる。また布団屋台は神事が始まれば宮を出るなどの問題点で西ノ丁・東ノ丁と北ノ丁との間で大議論になった。
1928年(昭和3年)布団屋台新調
昭和に入り、いつまでも屋台議論で、地区がわかれているのをみかね田渕粂次氏が中に入り説得。最終的に布団屋台と決定し、新調することとなり同氏が屋台を寄贈させた。
屋台製作 坂ノ上 大工 三輪亀吉 高欄部は紫壇を使用
腰部・狭間・脇棒受け等の彫物は飾磨の彫刻師松本義廣
1949年(昭和24年)擬宝珠屋台(神輿方屋台)に改修
青年団、兄若中からの要望強く議論の結果、擬宝珠屋台に改修することに決定した。屋台製作者の三輪亀吉氏により行われ、擬宝珠露盤の彫刻は三代目義廣氏である。こちらが、現在の黒崎屋台である。
1977年(昭和52年)屋台太鼓張り替え
網干区高田 太鼓師四代目 真田辰二郎氏により貼り替る。
1979年(昭和54年)こども屋台新調
乗り子は小学6年生、男女全員が乗る。
1980年(昭和55年)乗り子衣装の改革
若中、こども両屋台の乗り子衣装を議論の末、地区で購入、該当学年者、全員が着用し乗れるようにした。
1988年(昭和63年)本屋台修理と金具新調
屋台のバランス 担棒他の買入、金具の新調
1994年(平成6年)
富嶋神社大改修
1996年(平成8年)
本屋台屋根張り替え改修と脇棒受け担棒、伊達綱の新調
こども屋台、屋根の張り替えと金具メッキ