Books: 盤珪語録を読む: 不生禅とはなにか / 横田 南嶺(2021)

 

神社の由緒を調べていると、神社と寺院の関係が深かったことをうかがわさせるエピソードにいくつか出会いました。特に、富嶋神社の氏子地区である網干区浜田にある龍門寺の盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師については、禅の世界でも有名な人物のようで、難しい禅の教えを、庶民にもわかりやすく説いていった人物だったようです。それをまとめたのが、「盤珪語録」という書物です。しかし、その盤珪語録でさえも現代では解説が必要なほど読解が難しいので、博学な禅僧がここに解説書を出されています。

本書では、地元地域のために尽力した禅師の思想や生きることへの姿勢をうかがい知ることができます。

今回のブログ記事では、その内容には詳しくは触れず、播磨地方の祭礼と寺院や僧侶の関係についてわかったことを記します。次回のブログで本書の内容について書く予定です。

寺院の数は県下でもダントツに多いのが播磨地方です。飛鳥時代天平時代の間の白鳳時代、播磨では20ほどの寺がつくられましたが、県下の他地域を合わせても、5つくらいでした。数字的に見ても、播磨は近畿圏でトップクラスの古い寺院が多く建築されています。

播州の秋祭りでは、いくつかの神社氏子で、寺院や僧侶とかつて縁があったことをうかがわさせる場面があります。明治政府の廃仏毀釈以前の神仏習合の慣習の名残りを垣間見ることができます。

例えば、荒川神社の御旅所の下に本徳寺本廟があり、秋季例大祭ではお寺境内にて差し上げが行われます。

富嶋神社氏子は、網干区浜田の龍門寺前にて屋台差し上げを行います。これは、江戸時代に浜田に龍門寺を創建した盤珪永琢(ばんけいようたく)の尽力により、飛島の土地を申受けて社殿を栄み、武山八幡宮と貴布祢大明神とを合祀して現在の富嶋神社となったためと考えられます。

松原八幡神社の幟旗には八幡大菩薩の使いとされる番い鳩が刺繍されています。番い鳩は、八の文字にも見えます。八幡大菩薩が武神・軍神としての性格を強めていく中で、勝利を呼ぶ 瑞鳥 ( ずいちょう : めでたい鳥 ) として武家の家紋 などに用いられてきました。

魚吹八幡神社氏子坂上屋台の狭間には文覚上人の滝行の様子が描かれています。文覚上人は、坂上(さかのうえ)村に盛徳寺を開基し、ここを政所と定めました。

福井荘(宮内村など28ヵ村におよび、余部区を除く朝日中校区、網干中校区、大津中校区、広畑中校区と太子町の一部)の重要な水源に「福井大池(揖保郡太子町原)」や「福地河原(ふくじごうら・揖保郡太子町福地)」などがあります。

福井大池が埋め、 わずかな田地する際に、文覚上人が敢然と抗議し他というエピソードや、矢田部出屋敷(揖保郡太子町矢田部)の出水を封水し福井荘の用水としたなど、地域の住民の生活の安定に尽力したエピソードが残っています。

なお、坂上にある盛徳寺(文覚寺)を江戸時代の元禄年間に中興した蒙山祖印禅師(もうざんそいんぜんじ)は、盤珪国師(ばんけいこくし)に就き出家修行しました。その文才は盤珪国師の弟子の中でも随一であったといわれます。