うつ病で自殺した25歳の青年の手記が10月10日発売の文芸誌「三田文学」秋季号に掲載される。闘病の経緯を小説の体裁でつづり、遺書の要素を持ちながらも文学作品といえる内容。うつ病に苦しむ人が多い中、必死に生きようとした若者の魂の軌跡が反響を呼びそうだ。(毎日新聞より引用)
読んでみたかったので三田文学のこの号を取り寄せました.編集後記には,
この作品は遺書ではなく,あくまで小説として書き遺されたものであることは,お読みいただければ判然とします.そして文学作品は,なにより作品だけで評価されるべきであり,それを書くためどのような犠牲が払われたかは関係がない,という約束ごとを踏まえたうえで,あえて今号目次には「二十五歳の遺稿」と記しました.
とあります.
文体は日記調で日々の出来事と隙間に這い込むように主人公の思索や悩みが強弱がつけられて描かれています.他人(両親,彼女)との接触の場面は淡々と描かれています.逆に,主人公の思索の場面は,非常に綿密に混みあって描かれています.また,主人公の見た夢が詳細に秩序だって描かれているのも印象的です.思索や夢の中では,常に誰かから「問われて」います.カッコつきで,衝動的に自問自答が繰り広げられています.
僕はこの小説を文学作品として読もうとがんばりましたが,何か違和感を覚えずにはいられませんでした.それは作者の自殺という重い事実を忘れ去ることができなかったからでしょうか.それとも何か他に違和感の原因があるのでしょうか.
編集後記にもあるようにあくまで「文学作品」として,その裏にある「犠牲」を敢えて抜きにして読んだ感想を言います.実は,白けてしまう部分がいくつかあったのです.主人公が「友達」と述べているジョン・レノン,ドストエフスキー,ベートーヴェン,バッハ,カミュ,カフカなどの実存哲学・文学者や音楽家,ミュージシャンが文中にちょくちょく引っ張り出されてきます.好きなのはわかりますし,自分とも結構趣味があっているなと感じました.しかし,このように名前とともに月並みな説明を記すと,逆に場を白けさせてしまうのではないかと思いました.
違和感の原因は,おそらく「自己批評性」の乏しさにあると思えます.ジョン・レノン,ドストエフスキー,ベートーヴェン,バッハ,カミュ,カフカも各自の作品は,その個人を超越していると思えるからです.バッハの作品を聴いてみても,バッハが普段どんな生活でどんな性格だったかは,後から見えてくるものであり,まず作品の完全無比な旋律の美しさに芸術性があると思えます.茂木健一郎さんは文学批評集「クオリア降臨」の中で”現代の赤シャツはどこにいて,何をみているのだろう.”と問いました.
人の一生が一回性のものであることは認めます.しかし,その一回性をそのまま描いたとしても文学作品にはなりえないし,芸術ではないと思えます.
「最大の幸福」,「愛する」,「愛される」,「神様」,「ナルシシズム」,「弱さ」.これらの大文字の概念が,もろに文中を出してしまっていることも,この小説の物足りなさを感じさせる原因かもしれません.「神」を描くことにドストエフスキーやトルストイがどんなに苦悩したか,「実存」を訴えるためにカフカやカミュがどこまで自分を問い詰めたか,文学青年であるこの作者が知らないはずはありません.
敢えてこのように描いたのか,本当は「遺書」だったのではないのだろうか.その事実は今となってはわかりません.
ただ,遺書として読むなら,他人事には思えないです.身近な人が亡くなったようにさえ思えます.時に自分が...とさえ思えるような非常に重い事実です.