カミュ全集 第1巻・第2巻

★“語ること”と“沈黙すること”.この二つを同時に表現できるでしょうか.文字を書くことによって,沈黙は表現可能でしょうか.この相反する表現の狭間で格闘した人がいます.それは,フランスの作家,アルベール・カミュです.
カミュの文章には,沈黙が横たわっています.彼の代表作,「異邦人」や「幸福な死」の中へ読者が一度身を置こうものなら,沈黙が文字によって表現されているという一種の不条理に出会います.カミュにとって沈黙とは,戦死した父であり,唖の母であり,アルジェリアの大地でありました.そして,彼の頭上高くからさんさんと照りつける太陽こそ,沈黙の象徴でした.
カミュ全集の第1巻は,1932年から1939年までの諸作品,論文,ならびに断片草稿を収めたものです.本巻には「裏と表」と「結婚」という対照的な二つの作品が収録されています.「裏と表」は暗であり,「結婚」は明であると言えます.これら二つの作品執筆時のカミュには,最初の結婚の破綻,共産党からの脱党といった微妙な生活の変化がありました.「裏と表」では,幻滅感が示されていたのに対して,「結婚」では,対照的に,新しい地中海文化の建設をめざした精力的な思索を展開しています.

「裏と表」-「皮肉」

だれにでも死はある.だが,それぞれにそれぞれの死がある.いずれにせよ太陽は,たとえ骨になってもぼくらを暖めてくれるのだ.

「裏と表」-「肯定と否定のあいだ」は,自身の幼少期の家族様子を三人称で描いたものです.

家には,走ってゆく電車の反響がまだ残っていたが,それもしだいに,すべて消え去っていった.いまはもう,大いなる沈黙の庭しか残っていなかった.そして病人の怯えた呻き声がその沈黙にまじわるばかりだった.

「裏と表」-「魂のなかの死」は,カミュプラハへ旅に出てから再び地中海に面するイタリアに帰ってきた時の心境を語ったものです.

ぼくが,自分の幼少時代の世界に対する自分の執着と愛を理解するのに,長い年月を要したのと同様,太陽と,ぼくを生んでくれた国々の教訓を垣間見たのは,やっと今になってからだったのだ.

「結婚」-「チバサでの結婚」

大切なものはぼくでもなければ世界でもなかった.ただ単に,調和であり,沈黙だった.そしてその沈黙は,世界からぼくに向って,愛を生ませたのだ.

「結婚」-「ジェミラの風」

不安は,生きている人々の心から生れる.だが静けさは,この生きている心を覆ってしまうだろう.

「結婚」-「アルジェの夏」

ギリシアの人たちは,いろいろなものをとび出させたあと,そうしたいっさいのうちもっとも恐ろしいものとして,希望をとび出させた.ぼくは,これ以上に感動的な象徴を知らない.なぜなら,希望は,人々が考えていることとは反対に,諦念にひとしいからだ.そして生きることは,諦めないことだ.

「結婚」-「砂漠」は,イタリアのトスカナ地方を旅した時の手記です.

だが幸福とは,もしそれが一人の存在とかれが営む生活との単純な一致でないとしたら,一体なんだろう? それに,持続への欲求と死の宿命という二重の意識を別にしたら,人間を生に結びつける一体どのようなより正当な一致が他にあるだろう? 少なくともひとはそこに,なにも当てにはせぬことを学ぶだろうし,われわれに『おまけに』与えられる唯一の真実として現在を考えることを学ぶだろう.

感受性豊かな若きカミュ青年が経験した暗と明は,1942年発表の「異邦人」で見事に表現されることとなります.第2巻収録の「異邦人」で,主人公ムルソーが養老院で亡くなった母の葬儀に行かなかったこと,そして,アルジェリア人を銃殺したことなど,この作品全体に渡って,カミュ自身の沈黙に対するアンチ・テーゼが突きつけられています.牢獄に入ったムルソーが知識人として見られ,検事や証人から自分の味方の弁護士までの人たちによって物事が自分抜きで進行していく様,すなわち,主人公が異邦人として排除されている様子が描かれていることも,一種の反抗であると捉えることができます.その一方で,ギラギラと輝く太陽の下で描かれるマリーとの海水浴や喜劇映画鑑賞といった昼間の均衡からも沈黙が聞こえてきます.
かつて日本では学生の間でカミュがもてはやされた時代があったそうです.松岡正剛さんの分析によれば,当時の日本では,カミュのように不条理を語る能力が失われており,せめてカミュに代弁してもらおうとしていたとされます.犯罪と裁判を借りてしか日本の社会の議論をできなかったのかも知れないとも述べられています.