思春期をめぐる冒険〜心理療法と村上春樹の世界 / 岩宮恵子(2004)

思春期をめぐる冒険―心理療法と村上春樹の世界 (新潮文庫)


★目次
第1章 物語の力(物語の呪縛、新たな物語のプロローグ)
第2章 思春期という異界(異界の視点、思春期同窓会)
第3章 思春期体験と死(死のイメージ体験、生の中にある死)
第4章 現実の多層性(「見える身体」と「見えない身体」、羊男の世界、「入り口の石」、イメージの力、「向こう側」から来る性と暴力)
第5章 本当の物語を生きる(物語の共有、全体性を取り戻す、物語の行方)


村上春樹さんの小説は、「風の歌を聴け 」(1979年)、「1973年のピンボール」(1980年)、「羊をめぐる冒険」(1982年)、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」 (1985年)、「ノルウェイの森」(1987年)を読んだことがあります。最近でも「1Q84」が話題になっているようですが、天邪鬼な僕は話題になっている時は、見て見ぬふりをしてしまいます。


思えば、自分の思春期はだいたい中学1年から大学4年生までとかなり長かったように思えます。そのコアタイムは高校の3年間と大学のはじめの2年間だったと思います。思春期という時期は、もちろん体験した人ならわかると思いますが、色んな意味で不安定な時期ですね。本書にあるように、実生活の「こちら側」に対して、仮想的な世界である「向こう側」を築き、両極の行き交いが先鋭に表れる時期かもしれません。村上作品は、そのような思春期の本質を捉えているのではないかと指摘されています。


ノルウェイの森」のワタナベは10代に身近な人の死を突然にいくつも体験するわけですが、まるで空気の塊が日常に漂っているかのように、「それ」に出会ってしまうわけです。ワタナベのような希な体験をしなくとも、思春期の頃には、漠然と「死」の不安が出てくるものなのかもしれません。ただそれは、裏を返せば、「生」を自覚しはじめている証拠とも捉えられます。


村上春樹さんの小説に対しては批判もあり、例えば茂木健一郎さんは、まるでプラスチックのサンドウィッチを食べているようだ、女が書けていないと、世界を甘く見ている主人公=作家のご都合主義の世界だとも批評を行いました。実は意外にも本書の解説は茂木さんによってなされており、村上春樹の最大の美質は、通常抽象的と片付けられる観念の世界の事物が、目の前のコップや椅子と同じくらいリアリティを持っていることを見抜いている点にあるとしています。確かに、村上作品を読んでいると、観念的なものが、ごつごつと足元に転がっているかのように感じられます。それが、逆に浮世離れした感じを与える結果になっているのだと思います。


村上春樹さんは、小説を書くこと自体が一種の心理療法だとどこかで述べていたように記憶しています。村上小説を読む読者も、物語を読むことで心理療法が行われている可能性が高いのではないかと思います。すなわち、かつてはぎこちない形で「こちら側」と「向こう側」を行き交った自分の心理体験を、「物語」として追体験することで、こころの底に断片化して漂っているものを、整理しなおす行為になっているのではないかと思います。


もっと言えば、村上作品以外の小説、あるいは音楽など、いわゆる「物語」というものを読む、書くといった行為には、そのような療法的な意味合いも含まれているのかもしれません。また、その行為の段階では、作品の質に上も下もないように思えます。なぜなら、その人の主観の世界なのですから。


しかし、本書の冒頭でも強調されているように、「心理療法家が自分の成功した事例を『歌い上げる』ようになると、危険である」とあります。枠にはめる形での「物語化」が暴力になりえる可能性も秘めているということだと思います。そういう意味では、心理療法家というのは、本人が物語りを作っていくのをあくまで手伝っていく立場になるのでしょうか。


今思えば、自分は何をしても、誰と接しても、疲れたり、傷つく年頃がありました。そういう時にはやはり小説や音楽の世界にどっぷりつかっていたように思います。もしかすれば、知らず知らずのうちに自己療養、すなわち、向こう側で「物語化」を行っていたのかとも思えてきます。こんな風に難しく言わなくても、たぶん誰しもそういうことはあると思います。