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★目次
プレトーク ロマン派って何?(金聖響vs.玉木正之)
第1章 シューベルトの交響曲 夭折の天才が遺した全8曲
第2章 ベルリオーズの交響曲 永遠の青年が描くリアルな“幻想”
第3章 メンデルスゾーンの交響曲 音の風景画家にして近代指揮者の祖
第4章 シューマンの交響曲 楽譜にこめた柔らかな「響き」
インターミッション 「ブラームスはお好き?」(金聖響vs.玉木正之)
第5章 ブラームスの交響曲 知性と品格をたたえた絶対音楽の極み
第6章 チャイコフスキーの交響曲 哀しみが昇華した「快感」の音楽
アフタートーク 『未完成』から『悲愴』まで―その時々に歴史は動いた(金聖響vs.玉木正之)
★ここ最近ほぼ毎日のように美味しい食べ物を収穫することを夢見ながらコツコツと”こころ”という畑でクラシックという野菜類を育てることに励んできたのですが、いまのところはブラームスという品種の生りが一番よいように思えます。
脳科学者の茂木健一郎さんは、著書『疾走する精神―「今、ここ」から始まる思想 (中公新書)』の「音楽」の中で、
力のある音楽作品が私たちに感銘を与えるのは、聴覚野から入る音刺激によって喚起される神経活動が、もともと脳の中に潜在する神経の「音楽」と共鳴し、融合し、新たな何かを生み出すからである。
と記しています。
自分の脳内のメロディ、リズム、響きとその音楽とが共鳴しあっているというのです。音楽を聴くことによって、人が食べ物を得た時と同様に脳の報酬系が活性化するそうです。リズムやタイミングを肝要とする脳内の情報処理の大部分は意識の水面下で起こり、その一部分だけが意識の中で知覚されているとも言われています。
このように考えると、脳の中にあるものを外部化するという作曲家の行為が、受け手の聴くという行為よりもはるかに労力を要するに違いないという先入観は変わらないものの、聴き手がこの音楽を聴いていて心地よいと感じていることを自覚することによって、自分ではなかなか把握しえない自身の無意識の領域を少しだけ覗きみることができているような錯覚に陥ります。逆に言えば、音楽など芸術作品の創作という行為は、自分の無意識の外部化であるのかもしれません。一方で、音楽を聴くという行為を繰り返す、いうなれば無意識の畑を耕し、入念に手入れを行うということで、よりよい作物を生みだすことも可能であるのかもしれません。
昨年の9月に金聖響指揮による京響の演奏会を聴きに行きました(→記事)。金聖響さんは、現在ベートーヴェンとブラームスの全交響曲CDの録音を継続中のようです。
本書では、シューベルト、ベルリオーズ、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、チャイコフスキーとロマン派を代表する作曲家の主要な作品について解説がなされています。また、金聖響さんと玉木正之さんの対談も前後、中間部分に3つ挿入されています。個人的には「ブラームスはお好き?」の対談が興味深かったです。3大Bといわれるのは、ただ語呂合わせでそうなったわけではなく、ブラームスは、ベートーヴェンの存在の大きさ(プレッシャー?)をもろに受け止めており、バッハへの原点回帰と思われるようなパートも作っています。大きな流れがあります。ドイツを含む中欧の土地は痩せていてそれほど多くの作物は育たないということを聞きますが、こんなにロマンチックな(世俗的で自由で活力に溢れた)野菜の品種が生まれ育ったのはどうしてでしょうか。