★ハンナ・アーレントは、19世紀の諸帝国を「同一性」の原理に基づく、閉じられた帝国とみなしました。また、ナチス・ドイツのユダヤ人の収容所への移送の責任者であったアドルフ・アイヒマンの問題については、道徳に著しく反するように思われる命令に対して葛藤を覚えることなく、陳腐にその業務を遂行し続けることができたことにあると考えました。
『人間の条件』の冒頭でアーレントは、古代の「人間」観を基準にして「人間」であるための3つの条件を1.労働 2.仕事 3.活動としました。マルクス主義では、仕事を含んだ意味での「労働」を人間の「類的本質」とします。それに対してアーレントは、活動を最も重要視します。「労働」や「仕事」が個人の営みであり、必ずしも他の人と直接に関わりを持たないでも遂行できるのに対して「活動」は、自分と同じように思考しているであろう他の「人格」に前提にして働きかける営みです。さらにこの「活動」の前提に「複数性」があると考え、動物の群れのように一匹に個体のように一体となって振舞うのではなく、人々の間で言語的なコミュニケーションを介して人格的に相互作用するとします。全体主義は、「複数性」の破壊と捉えることができ、物の見方を多元化することのできる余地を潰してしまっているとみなされます。
アーレントは、「活動」の原型を、アテネなどの古代ギリシアの民主的な「ポリス」に見出しています。それは、すなわち、物質的な利害関係やしがらみから「自由」な市民たちが、自分のためではなく、「ポリス」全体にとって何が善いことであるかについて討論しあう営みです。古代ギリシアのポリスでの政治の理念としては、公的領域、すなわち政治の場では、利害関係を超越していたとされます。一方で、私的領域では、物理的な暴力による支配が行われ、食物や生殖に関わるヒトの生物的な欲求の充足が図られていたとされます。アーレントは、近代資本主義社会において、「家」がもはや「経済」の基本的単位ではなくなり、社会全体で「労働−生産」体制が組織化するようになったことが、ポリス的な「公/私」二分法の解体に繋がったと考えました。アーレントにとって、「人間」らしい「活動」は、あくまでも物質的利害関係から離されて、討論の技の洗練に専念できるポリス的な「公的領域」においてのみ成立します。したがって、討論などの「活動」が十分に行われないまま、もっぱら共通の利益を追求する市民たちの行動は、不可避的に均質化してくると考えられます。
マルクス主義では、”人間”らしい個性、複眼的な思考法を失っていく現象を、「疎外」と呼びます。すべての「物」を交換価値によって価格表示される商品に変え、個々の人間の身体を生産体制に組む込む資本主義経済の浸透が、「人間疎外」を促進しているという見方を行うという意味では、アーレントとマルクスは共通しています。しかし、マルクスが「労働」のプロセス全体を労働者階級の手に取り戻すことによって疎外を克服しようとしたのに対して、アーレントは、「労働」に至上の価値を見出せば、行動様式の均一化が起こり、人間性の崩壊を助長すると考えました。さらには、疎外が進行し、人間らしさが失われていくにつれ、人々は「親密圏」の中に、人間らしい魂のつながりのようなものを求める傾向を強めていき、その結果、公的領域における「活動」に対する意欲が失われることを危惧しています。
フランス革命において、”共感しない輩”を大量に粛清する恐怖政治が行われたように、「共感」を政治の舞台に持ち込むと、自分たちと同じような共感を抱かない人に対して不寛容になり、「間」を置いて議論できなくなることも指摘されています。他にも、スターリン主義時代のソ連、文化大革命時の中国、ポル・ポト政権時代のカンボジアなどは、この事例とアナロジーの関係にあると解釈できます。アーレントの公共性論は、各人が活動主体として、公的領域の舞台に「良き市民」という仮面=人格を被って現れ、本音を見せることなく、演じることを前提にしています。したがって、その仮面を取り去って出てくるものは、人間の野蛮な部分、暴力性とか支配欲、性欲などの、悪い意味での動物的な欲求であるとされます。
1776年の独立によって誕生した新興国家「アメリカ」では、種々雑多な文化的出自、価値観を持つ多くの人々が「憲法」の内に自らの政治的アイデンティティの源泉を見出し、その「憲法」を積極的に守っていこうとする共和主義的姿勢を示すようになり、アーレントはそうした「アメリカ」を古代のポリスに似たものと捉えました。”自然本性”に根ざした秩序を自由はみなされず、「創設=基礎付ける」こと、そしてその共同体を「憲法」を軸に「構成する」政治的共同体こそ、自由な空間であると考えました。
以上のようにアーレントの考えを鑑みると、本書の著者が指摘するように、複数の視点から物を見ることを可能にする討論を行うことが、「活動」力を高める上で肝心なのですが、時間と場所、お互いに自由な人格として認め合っている仲間がいないと、本当の意味で討論することはできないというのも今の社会の現状です。
晩年のアーレントは、カントの思想の影響を受けて、思考を「内」から「外」へと拡大し、同じような思考様式を持っているであろう「他者」を想像し、そのヴァーチャルな「他者」の視点と調和するように、自分の精神の働きを調節する能力を「拡大された心性」と表現しました。共同体においてコミュニケーションの質を高めてゆくには、コミュニケーションの様式を共有する共同体のメンバーシップ、資格を確定し、一定の訓練を経た者だけが、それに参加できるようにしておく必要があると著者は指摘しています。
このようにアーレントの哲学では「活動」する者としての側面が強調されているという印象を受けますが、局外中立的な「観客」の重要性も説かれています。「観客=注視者」が、現に「活動」している人たちよりも事態を「公平に」見ることができると暗喩的に言及しているとされます。この「公平な注視者」の政治哲学的な意味として、著者が想像するところによれば、一つは、現場を知っている人や渦中の人などの当事者はかならずしも自分の置かれている状況を客観的に把握しているわけではないということ。もう一つは、大きな政治的出来事が進行している時は、誰しも厳密な意味ではその「外部」に立って、公平な観客になりえず、その出来事が終わった後に、ようやく公平な視点を取ることができるということです。現代の社会において、孤独に陥りがちな「私の思考」を、歴史という過去を公平に注視し、判定しようとするまなざしが、政治的共同体を構成する他者たちのそれと結び付け、かつ、その共同体を存続させているのであると締めくくられています。
かつて”アーレントは面白いから読んでみたら”と薦められたことがあります。本書で解説される限りでのアーレントの哲学を鑑みると、利害関係にとらわれがちな現代の社会において、あえて利害関係を含まない公共の場としての共同体において、コミュニケーションのための規約や環境を整えた上で、議論や意見交換を行うことは、自分たちの「精神」の働きの同一性を確かめることにもなり、それと共に、それぞれの価値判断が微妙に違うことを発見できるということになります。たとえ、動機が私的利害であっても、意見交換を行い、集団(市民)全体に対して開かれた討論を通して、その社会全体の利益を考えるようになることは、新たな公共性として機能しえるのではないかと思いました。
またさらに話は一気に飛躍するかもしれませんが、個人的な感想として、このような共同体として「さとかん」を捉えることもできるのではないかと思いながら本書を読んでいました。