最近、アウグスティヌスに興味が出てきて、ネットで上記タイトルの論文を見つけました。アウグスティヌスとキルケゴールにはいくつかの接点があります。
これを読んでいくうちに、かつて自分は哲学的位置づけなどは解らないながらも、なぜかキルケゴールに惹かれるところがあった理由が少しわかったような気になりました。また、自分も時折、出口の見えない「ぐるぐる思考」に陥ることはあり、それはもしかすれば「自己」を見つめ直すという一種の自己治療を行っているのかもしれません。程度の差はあれ、そういう循環に陥ることがある方が、より正確に自己の状態を把握できるのかもしれません。
本論文は、キルケゴールの生涯と著作を「気分」や「鬱」の観点から見直したものです。また彼の思想が鬱病の理解や各種の心理療法の開発に与えた(あるいは与え得た)影響について考察がなされています。
キルケゴールは「憂愁/憂鬱tungsind の哲学者」と呼ばれ、『これか―あれか』、『恐れとおののき』、『人生航路の諸段階』、『反復』、『不安の概念』、『死に至る病』での「絶望」といった、いわゆるキルケゴールは一貫して否定的な気分を扱っていると言われます。
誰しもが日常生活において、なんとなく元気のない「憂愁」を経験することがありますが、極端に元気がなくなり悲嘆に暮れ、病的に苦しむ状態は「鬱病」として、またそうした状態の前後に現れる狂騒をともなった「躁鬱病」の状態はメランコリーという狂気として知られており、このような症状は、精神的な疾患としてはもっとも古いものの一つと考えられています。
精神医学の歴史的発展を見た場合、狂気に関する古代の「メランコリー」という体質に関する概念が、中世の「怠惰」としての悪徳・罪と、近世・近代の才能の刻印という概念を経て、治療を必要とする精神の疾患として他の狂気から分離されて理解されるようになったと考えられています。現代の精神医学の発展にともない、「メランコリー」のさまざまな側面は、気分障害(鬱病、双極性障害)とその病前性格として理解されるようになります。
本論文では、キルケゴールはこの「鬱」が単なる「体質」から「病」へ移行する時代に自らの病と格闘していたものとして位置づけがなされています。現代医学の見地からすれば、躁鬱病/気分障害のカテゴリーに入ります。
キルケゴールの心的状態は一過性の「鬱病」ではなく、むしろ、周期性あるいは季節性の躁鬱病として有名なゲーテなどと同様、一定の周期が見られることが指摘されています。実際、キルケゴールは短い生涯に異常なほど大量の出版物・書き物を残し、活動力は盛んで、その多くは非常に冗漫で繰り返しが多く、また話題の飛躍が見られるため、クレペリンが躁鬱病の特徴として指摘する「観念進行」や「観念的奔放」が見られます。
著者は、キルケゴールが自分の憂愁なりメランコリーなりをいかに理解し、それに対する処方箋をいかに書いたかということは興味深いとし、彼の著作にあらわれるメランコリー、憂愁、不安、絶望などの分析は、むしろ、現代に生きる「異教徒」や医学者に対してさえ豊かな主観的洞察を提供してくれていると見ることができるのではないだろうか、と考えています。
まず、『これか―あれか』での仮名著者 A による「ディアプサルマタ」が鬱病的経験の主観的諸仮名著者A は、青年ゲーテやボードレールらの詩人と同じ観点に立っていると解釈することも可能であるとする一方で、A が常に憂鬱に沈んでいるわけではなく、時おりの気分の高揚が見られることにも見逃せない特徴だとされています。
一方、キルケゴールの独自性は、こうした詩人的な気質や活動を、その外側から分析し批判しつづけたところにあると、指摘されています。『これか―あれか』第一部での A の鬱病者的な主観的経験を、第二部でヴィルヘルム判事が臨床家のような眼で分析している箇所があり、こうした分析は、20 世紀の臨床家たちの所見と非常によく合致するものと考えられます。またフロイトは、悲哀では自己評価は下がらないがメランコリー(鬱病)患者の自己評価は非常に低いことを指摘していますが、キルケゴールの著作でもしばしば見受けられます。
キルケゴールには、自分閉鎖的な「くよくよとした思い悩み」 のなかへと閉じこもってしまうような症状が見受けられます。精神科医の野村総一郎は、こうした鬱病患者特有の思考を「ぐるぐる思考」と名付けています。それには、 (1) 矛盾する欲求や意志をかかえて身動きがとれず、(2) 現在かかえている問題を過去の出来事に起因すると考え、(3)「自分は何々だ」という思いこみにとらわれ、(4) 自分でもやめようと思うこだわりから抜け出せないといった悪循環の思考のパターンが生じているとされます。
以上のような症状が見受けられるものの、キルケゴールの独自の功績の一つは、メランコリー(あるいは憂愁や鬱)を単なる体質の問題とはみなさなかったこと、そしてまた、ゲーテやボードレールのように、メランコリーや憂鬱を詩的に美化することで満足しなかったことだろう、と著者は指摘します。
彼は、メランコリーや憂鬱は単なる体質や気分ではなく、「自己」の問題であるとはっきりさせるのです。こうした憂鬱∼負い目∼内閉∼絶望という、現代の心理学からすれば中心的鬱病エピソードが『これか―あれか』から『死に至る病』までキルケゴールの著作に一貫して流れるテーマであると見て取れます。
したがって、キルケゴールの実存と著作活動全体は、彼自身の憂愁を克服しようと苦闘の歴史と見ることができます。ではキルケゴールによる鬱への処方箋はどのようなものだったのか。
キルケゴールの伝記には、彼の自分に対する私的な処方箋の一部は、散歩や馬車によるピクニック、あるいは音楽会などの享楽や、タバコ、ワインなどの薬物などによる奢侈と浪費であったことが記されています。しかし、彼の活動を見れば、むしろ著作活動そのものが治療であったと考えるべきかもしれません。
西洋近代の文人にとって、書くこと自体が治療となっていたケースがいくつかあります。キルケゴールの愛読書、アウグスティヌスの『告白』がその先駆であり、ペトラルカの『わが秘密』におけるフランチェスコとアウグスティヌスの対話があたかも鬱病をめぐる症状の記述と認知療法的な対応であることを指摘する学者もいます。
同様に、キルケゴールの厖大な日誌が同じような役目を果たしていたことは容易に想像が可能です。『これか―あれか』の一部のフレーズでは、アウスグスティヌスの『告白』をモチーフにしているとも見て取れます。キルケゴールやアウグスティヌスのこうした文章からは、憂鬱や苦悩や絶望などの危機を通して新たな自己や信仰へと至るという共通したテーマが見られます。
「憂愁」は精神的により高次の段階に進むべき時点にとどまりつづける罪責によって生じるとされ、憂愁に悩む者は絶望し、選択によって変容しなければならず、憂愁に苦しむ人間は、憂愁にとどまらず、むしろ絶望を選択する方向へ進んでしまいます。では、その絶望からいったいどのようにして抜け出すことができるのかと考えると、キルケゴールの場合は、イエスの福音を受け入れそれに従うによってしかありえなかったと考えられます。
『これか―あれか』以降は鬱への処方箋は「美的著作」群から姿を消し、むしろ主として実名による「建徳的著作」に現れるように感じられる、と著者は述べます。しかし、イエスの福音にもかかわらず鬱にとどまり続けることこそ「罪」であるとするアウグスティヌスの『告白』(特に第 10 巻)以来の伝統が強調されることになります。
といっても、これらのキルケゴール自身の処方箋の実効性が保証されたわけではなく、むしろ、「ぐるぐる思考」を抜け出すことはできなかった可能性も高いです。事実、上記の建徳的談話は冗長でまったく具体性がなく、美的著作の具体性や迫真性とは比べものにならないところからも伺えます。実際には、キルケゴールは、少なくとも現世で心理的に不健康であることこそキリスト教による救済の印と考えるに至ったのではないだろうかと、著者は結論付けます。キルケゴールにとってキリスト教は少なくとも世俗的生活においては苦難の道でありつづけたのかもしれない、と。
最後に、現代の鬱病の治療をキルケゴールが受けたとしたらどうなるか、また、そうした治療についてキルケゴールはどういう見解をもつのかと、簡単に考察が行われています。
一般的に、現在鬱病の治療は抗鬱剤の投薬が主流ですが、投薬は一時的な単極性鬱病には高い効果があるが、双極性障害に対しては一時的に改善されても再発の可能性が高いことが知られています。一方、現在では鬱病や躁鬱病に対しては向精神薬に加えて認知療法を行なうことが有効であるとされ、実証例も出ています。
キルケゴール自身はその晩年の時点においても極端な「心の読み過ぎ」思考や「過去へのこだわり」に思考が歪められていたかもしれません。ただ、こうした認知療法がなんらかの効果はあった可能性は否定できないとされます。
一方、ペトラルカの『わが秘密』でペトラルカ自身がアウグスティヌスと想像上の対話を行なうことによって認知療法を行なっているという説があるように、キルケゴール自身もすでに著作活動や日誌記述によってある種の自己認知療法を行なっていたと解釈することもできます。
興味深いことに、先の認知療法の基盤とする理論に対して、1990 年代からはむしろ抑鬱状態にある人の方が自己の状態を正確に把握しているという「抑鬱リアリズム」説が実証的に唱えられているらしく、キルケゴールは心理学者や日常に生きる我々よりはるかに深く先に進んでいる可能性もあると考えられます。
著者の見解によれば、キルケゴールがこうした「信仰」によらない気分障害治療法の開発、すなわち、現代的な投薬および認知療法によって、本来的な自己からますます離れてしまうことになると批判するだろうと考えています。なぜなら、なにより、キリスト者であれ、「異教徒」であれ、我々のほとんどは確固とした「自己」を理想ももたずあやふやに日々生活しており、各種の自分が是認する「戒律」を守りもせず、「隣人愛」を賞賛するが実際には自分ではほとんど行動せず怠惰でありつづけ、細かな不正をくりかえすといったまったく悲惨な生活をしている、というのが現実だからです。むしろまさに絶望し自己を選び直すべきだとさえ再度主張するかもしれないというのです。
おそらくキルケゴールは鬱に苦しむことをひきかえにしてもあくまで「これか―あれか」「ねばならない」にこだわりつづける道をあえて選択するだろう、と締めくくられています。
江口聡(2009)『キルケゴールの「鬱」とその対策』参照
http://melisande.cs.kyoto-wu.ac.jp/eguchi/papers/sk_depression2009.pdf