自己を決める

ところで、この「自己を変える」という言い方は、宗教においてもきわめて重要な意味を持ちます。「回心」「発心」などは、まさにその契機をあらわす概念でしょう。ではその「変え方」は整形と何が違うのでしょう。


 宗教においては、「自己が誰かを決めるのは他者である」構造を承認した上で、「自己が誰かを決めるのは他者と『神』『ダルマ』(などの理念)である」という具合に、拡張的に構造転換するのだろうと、私は思います。そして、ここに宗教者として生きる意味と困難があります。ときとして、宗教が社会と深刻な矛盾や摩擦を起こすのは、根底に「自己が誰であるか」を決める者同士の、おそらく解決不能の、原理的相克があるからです。
http://indai.blog.ocn.ne.jp/osorezan/2009/12/post_c513.htmlより

南直哉さんのブログからの引用です。


以前、自分も「他者の視線」ということで色々考えたことがありました。宗教者とは、その行為の源泉に神からの視線を忍ばせている人たちのことではないかと思っていました。一方、普通の(特に信仰を持たない)人たちにとっては、「世間」が神なんだろうと思っていました。


今回、上記のように、「自己が誰かを決めるのは他者と『神』『ダルマ』(などの理念)であるという具合に、拡張的に構造転換するのではないだろうか」と、考えられているのを読んで、自分もなるほどそうだなと納得しました。