Books: 仏教入門 / 南直哉(2019)

 

 インドの聖典、経典を読んでいると、輪廻転生の概念を抜きにしては何も話が理解できません。必然的にカルマ(業)についても考えさせられます。しかし、南氏は本書で、仏教に輪廻は要らないと言及します。理論的に余計なものが存在し続けるのは、実践的な需要があるからで、人間に善悪を強要する道具としての需要があります。善行を課し、悪行を禁じる時、脅迫と利益誘導の手段として、「輪廻」のアイディアが使われます。もう一つの実践上の需要は、差別イデオロギーにかかわります。自己の存在に対して理由や根拠を求める欲望というのは、人間にとっては致命的です。

しかし、業については違うと言います。業の原義は行為であり、業思想の基本は行為が人間の存在の仕方を規定するということです。人間の行為は、因果律を方法として使用しない限り、現実化しません。すなわち、将来の目的を設定し、それに鑑みて過去の経験を反省して、現在なすべきことを決断します。仏教において修行がかのうなのは、まさにこの方法によります。すなわち修行僧としての目的を立て(誓願)、過去を反省し(懺悔)、なすべきことを決断する(発心)。その意味で、業の考え方は仏教に不可欠であるとされます。

ある人物の業は徹頭徹尾、彼自身の自覚の問題であり、第三者が彼の業についてアレコレ言うこと(過去生の悪行の報いなど)は、極めて僭越かつ無礼であり、人権侵害にもなりえます。過去世での行いは、通常の人間には知り得ないからです。ただし、本人が第三者からのコメントに一理あるなと納得するなら、彼の業の認識にもなるでしょう。

仏教において、因果は「修行する」ことにおいて作動されてのみ、意味がある(善悪因果をして修行せしむ)。だからと言って、我々が因果を勝手に操作するわけではない(動ずるにあらず)。無い因果をでっち上げるわけでもない(造作するにあらず)。因果が我々に修行を可能にさせるのだ(われらをして修行せしむるなり)

 因果関係とは理解すべきアイデアではなく、信じるべきアイデアという意味です。道具は使ってみないと、その有用性はわからないですし、道具の選択と使用中は、使えるはずだと信じることしかできません。