Books: 『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか / 南直哉 (2008)

 

 

月一回の座禅会に参加した際に、お寺の門前の石碑に、

仏道をならうというは、自己をならうなり。」

とありました。
道元正法眼蔵(しょうぼうげんそう)』 の「現成公案(げんじょうこうあん)」の一節です。

道元の『正法眼蔵』は自分のように基礎知識のないものには大変難解な経典で、それなり学識のある僧侶や学者じゃないと読み解くことは難しいと思われます。自分も、本書であったり、曹洞宗が発行する一般向けの月刊誌などの解説を読みながら読解しています。

本書は現代哲学や西洋哲学の素養のある南氏らしく、ハイデガー存在論道元の存在の捉え方に違いについて、キリスト教と仏教の違いについて、概念(言語化)と体験の違いについて、さまざまな観点から解説、考察されています。それは、単に、「存在するとはどういうことか」の命題を説明するためです。仏教とヒンドゥ教では、自己の有無の点で決定的に違うとも言われます。仏教の場合、縁起によって自己が生成するのであり、逆に言えば、その自己は縁起がなければ成り立たないことになります。

自己とは何かを知ることではなくてどういう自己をつくるか、「ならう」ことが問題です。「ならう」と「知る」は別物です。自己とは何かという質問がいかに的外れな問いの立て方であるか、本書を読めばわかります。