粕谷宗関氏の屋台彫刻の書籍は、どれも入手困難になっており、図書館などで借りるしか内容を閲覧する方法はなさそうです。
ただ、播磨の屋台、特に神輿型屋台の新調のスパンは短く、狭間彫刻や露盤も新しいものに変わってしまう場合があります。1996年に出された本書は、播州屋台会館としてホームページに写真と共にその内容がアーカイヴされています。
ハリフェスにも記載しましたが、
神輿屋根屋台の形態
練り合わせ型屋台(灘・飾磨型)とチョーサ型屋台(網干型)に大別される。
現代のように極限まで装飾的になったのは高度経済成長期、屋台の長い歴史からいえばつい昨日のことである。ひとたび太鼓屋台が定着しても次々と意匠が工夫され、幕や高欄掛け、装飾的な綱、金属工芸、木彫りなどが次々加えられ、さらにこれらの意匠が巧緻に豪華にという風に競い合うように発展していく。風流祭礼の始原にして典型である祇園祭の山鉾が中世末期にはほぼ固定して現代に至っていることや、大阪・神戸のダンジリにおいても装飾の変化が激しくない。それらに比べると、播磨の神輿屋台の新調のスパンは短く、装飾の変化が激しく、現代でも風流の精神が脈々と流れている。分布
神輿屋根型屋台は、平屋根型が西日本の海岸沿いや河川の流域に沿って広く分布するのに対して、その分布は狭く、播磨平野を中心とする地域に限られている。播磨平野の沿岸部を起点に川を遡って水運と共に運ばれた形跡はあるが、瀬戸内海を渡って四国の讃岐平野までは伝播することはなかった。歴史
18世紀半ば頃に登場し始める。播磨祭礼においても屋台が席巻する以前は、芸屋台であるダンジリが花形であった。魚吹八幡神社ではその伝統を今も受け継いでいる。一方で、松原八幡神社も享保から宝暦の頃には狂言を披露するダンジリが主役であったことが絵馬や祭礼絵巻に描かれているが、今はない。