Books: 臨済録 / 入矢義高訳注(2022)

 

ヨガを練習してふと思うのが、「そもそもそんなにストレスがあるのか?」「解脱を目指すのなら、何に束縛されているのか?」「サトヴィック(純質)なものを得たいのは、そんなに不純なものばかり得ているからなのか?」という問いです。

何かの目的のために行為するなら、そもそもその動機はどこから来るのか?ということです。むしろ、「ヨガをやっているから、〜しなければならない」と、動機と目的が逆になってしまうこともありそうです。

これは日常生活でもあり得る話で、「誰々に認められたいから、これをやっている」ことも、多少は誰しもあるかもしれません。それはそれでいいとしても、そもそも、その自分の行為の結果を認めてくれる相手とは、それほどのものなのか?と自問する必要があるかもしれません。

上から目線でものを言う人は、実はそれほどのものではないのかもしれません。本書の解説にもあるように、

「大事なことほど、それとなく言うものです」は言い得て妙です。「相手をこうさせたい」「相手をコントロールしたい」と言う傲慢な欲望をもとに発せられる言葉は、むしろ逆効果なのでしょう。

そもそも、その行為には何の目的があるのか?と相手に自問させる、我に返るように仕向ける問答が必要なのでしょう。

松岡正剛さんの書評には、色々詳しく書かれていて勉強になりました。

臨済録』の全節にこういう調子の問答がズラリと並んでいるとおもえばよい。しかし、その狙いは一点一線の見極めに集中する。示衆ではこれを「照用」という言葉で説明をする。
 「照」とは相手の内容を見てとる力のはたらきをいう。「用」は相手に仕向けるはたらきをいう。臨済はこの「照」と「用」との組み合わせをすばやくおこして、弟子を煙に巻く。むろん煙に巻いたわけではなかった。どんなときに「照」を先にし、どういう場合は「用」を先にすればいいか、あるいは先後を変え、あるいは先後を同時にするか、その方法を端的に示唆したのであった。のちに「先照後用」「先用後照」「照用同時」「照用不同時」といわれ、これは禅の方法論になっていく。松岡正剛の千夜千冊