なぜ,「いなくなる」と,寂しいのか.

「あるものがなくなると寂しい」,例えば,小さいころよく遊んでいた裏山の大木が切り倒されるとか,小川にいたメダカやゲンゴロウタガメがいなくなる,あるいは,小川がなくなると,寂しいと感じるのはどうしてなのだろうか.
これは,身近な人が亡くなると寂しいということと同じなのだろうか.家族,友達,親戚,近所の人,ペットが死んでしまうと寂しいと感じる.時には,苦しく,辛く,日常生活に支障をきたすほどの心理的衝撃を受けることもある.
「私は,〜が好きだ」という意思表示は,「〜がいなくなると寂しい」と言っていることになるのだろうか.「私は,ヒョウモンチョウが好きだ」を言い換えれば,「私はヒョウモンチョウがいなくなると切なく,辛く苦しい」という意味なのだろうか.
「ある生物がいなくなる」,あるいは「いなくなりそうである」というのは,「好きなものを失う辛さ」と同じような心理に陥っているのだろうか.
それとも,「自分の死」と重ね合わせてしまっているのだろうか.
そもそも,「〜が好きだ」とは,どういう意味なのだろうか.そのような質問をすれば,「好きになったことがないから,わからないのだろう」という答えが返ってきそうだ.しかし,これでは何も納得できない.
「好き」ということを「有難い」として置き換えることはできるのか.僕はお金や食べ物に対して有難いと感じる.しかし,お金や食べ物を好きだということもできるが,何かニュアンスが違っている気がする.逆に異性に対して好きだと思うとする.しかし,これも有難いというニュアンスとは異なっている気がする.
そしたら,「〜という生物種を好きだから守りたい」という意思表示,あるいはそれに伴う行動は,いかなることなのだろうか.
他者を愛でる(好きになる)という行為が,人間に本能的に備わった性質であるのかも知れない.好きなものがなくなると,寂しいというのも,説明ができないが,連鎖的に寂しさを引き起こすものだといわれれば,そうなのかもしれない.
しかし,僕は何かがわからないと感じている.何がわからないのだろうかもよくわからない.これは今に始まったことではない.保全生物学を勉強すればするほど,「何かが足りない」と感じるから,それを捕まえようと必死になってしまって,話しを前へ進めることがきないのだ.