宗教と科学〜ウィリアム・ジェイムズ

The individual's religion may be egotistic, and those private realities which it keeps in touch with may be narrow enough; but at any rate it always remains infinitely less hollow and abstract, as far as it goes, than a science which prides itself on taking no account of anything private at all.
個人の宗教は自己中心的であるかもしれないし,そのような宗教にかかわる私的な実在はいかにも狭いものであるかもしれない.しかし,いずれにしてもそういう宗教のほうが,私的なものは一切考慮しないことを誇りにする科学よりも,つねに無限に内容が充実しており,具体的なのである.
William James (American Philosopher and Psychologist, leader of the philosophical movement of Pragmatism, 1842-1910)

ウィリアム・ジェイムズの晩年(1902年,60歳)の講義集「宗教的経験の諸相」の最終章の「結論」からの引用です.科学か,宗教かについての思索です.
ジェイムズは1870年頃(28歳頃)に精神的危機に陥りました.それは,宗教的憂鬱であったと同時に,生きる支えとなるような哲学を欠いているところから生じた,生きようとする意志の衰退であったと言われています.ジェイムズ自身の中で異質的に分裂していた二つの自己体系が闘争していたに違いありません.
この講義集の全体をなすものは,「慰めとなる信仰」であって,この信仰こそジェイムズの精神的危機の体験を通して学び知ったものにほかならないと解釈されています.
ジェイムズは個人の体験を重要視しています.「最も重要な真理は,思考される前に感じられ生きられた真理である」と語ります.科学を”客観”,宗教を”主観”として表現しています.「主観的部分は,思考が行われる内的「状態」であり,私達の経験そのものである」と.「それゆえに,経験の自己中心的な要素は削除さるべきであると科学がいうのは,不条理である」と主張されています.
参考文献:W.ジェイムズ著「宗教的経験の諸相」(桝田啓三郎訳)岩波文庫