法然を語る / 町田宗凰(2009年)

法然を語る 下 (NHKシリーズ NHKこころの時代)


法然悪人正機説を唱える以前は、人は死後、異なった九つの階層に生まれ変わると考えられていました。ところが、法然は、仏を貶したり、親をあやめたりするようなひどい罪を犯した者でも、回心すれば最高の階層に生まれ変わるし、いつも仏典を読むような殊勝な者でも、最低の階層に生まれ変わることがあると主張したと伝えられています。


この本意として、自分は立派なことをしたと思って、むやみに高いプライドを持っている人間と、自分はとんでもない罪なことをしてしまったと深い懺悔の心を持っている人間と、どちらが仏に近いかといえば、やはり後者であると解釈されています。


<見るなの座敷>(禁忌の場所)のモチーフは、人間の深層心理にある闇の意識を表現しているとも言われます。近代ではアンチコスモスという概念で説明されます。無意識的世界であり、無秩序なカオス的世界でもあります。勇者が、このタブー域に入り込み、怪物を倒し、弱きものを救う神話や昔話は、意識と無意識の統合を意味しているとも解釈されます。個人においては、病気やケガ、経済的困難、家庭問題など、いわゆる挫折のことですが、冒険と生還は、セルフ・アイデンティティーの確立に欠かせないとも言われます。


法然持戒(日常的に念仏を唱えることなど)の立場を崩さなかった理由として、宗教体験における身体性を重視したことと、社会的な批判から防衛するために自身の身を清らかにしておく必要性があったことが挙げられています。


悪人正機説を説いた法然親鸞についてある意味で対照的に説明されています。ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』では、回心には二つのタイプがあると記されています。一つは健やかな心の持ち主による意志型回心であり、強い意思で理想を求めていくうちに漸次的に体験する回心のこと、もう一つは「病める魂」による自己服従型回心で、罪悪感が強く、絶望に陥った人間が外側の力に救いを見出す急激な回心です。法然は前者、親鸞は後者にあてはまると解釈されています。


「善人尚を以て往生す、況や悪人をや」の善人とは、つねにまじめで道徳的であろうとする意識的自己しか見ていない人ではないかと述べられています。人間の無意識には悪魔的なイメージが際限なく居座っていると理解したユングの四位一体説によれば、宗教や道徳などの先入観に基づく表層意識によって不当に抑圧されていることが、多様な神経症の原因となっていると考えられます。すなわち、サタン(悪魔)を外に対峙させるのでなく、内に潜んでいることを自覚することが統合につながることになります。法然親鸞の専修念仏の教えが、最も相応しい救済対象としたのは、煩悩を抱えたまま、生きることに苦しみながらも、自己理解を無意識まで広げている人であったのであろうと言及されています。


今の日本は何でも手に入るけれども、希望だけは手に入らないとも言われます。その原因の一つとして、心と体の分離があるのではと指摘されています。宗教体験には、心と体をぴたりと重ね合わせることによって生じる喜びの感覚が伴っていると述べられています。念仏を唱えるとき、あるいは深い禅定に入っていくときなどがそうです。こういった生活基本を、生きがいともいえるのかもしれません。楽しいと感じながらやる行為には、否定的記憶を消す働きがあるとも言われています。スポーツや音楽、食事、仕事などでも容易に体験できます。法然が実践した口称念仏もその類のものであると説明されています。


また、能率、生産主義もその原因の一つなのではと言われています。法然は「生まれつきのまま」の人が人に<愛>を与え、絶望から立ち直らせてくれるといったことを説いたとされます。例えば、トルストイの『イワンの馬鹿』に出てくる主人公や、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵のように。


近代社会が、理知を高く評価し、科学を生み出し、個人の尊厳を絶対視することによって、神を抹消したかに見えますが、潜在意識では、いまだに父なる神の支配を逃れていないという不安と焦りがあり、その一方では神を裏切ったという罪悪感があるのではと指摘されています。


日本の十三世紀鎌倉時代は戦乱の時代であり、希望なき時代でありました。そんな中、すべての人に光を与えるような思想を説いた、法然親鸞といった革命的宗教家の精神遺産を掘り返してみることで、希望が見出せるようになる現代人も少なくはないかもしれません。

せこにこめたる鹿も、ともに目をかけずして、人かげにかえらず、むかいたる方へ、おもいきりて、まひらににぐれば、いくえ人あれども、かならずにげらるるなり。『つねに仰せられける御詞』