★目次
1 プラント・オパール分析法とは
2 弥生時代の水田稲作
3 焼畑の里を訪ねる
4 縄文農耕の可能性
5 稲作の発祥地を求めて―中国・長江デルタの発掘調査
むすび
★人口増加やバイオ燃料の需要増、投機マネーの流入で穀物価格の高騰が続く中、コメや小麦の輸出を制限する国が出始めているようです。穀物の輸出規制が世界各地で進む中、食料自給率約40%の日本で食料自給に向けた取り組みが始まっています。例えば、小麦の代わりに米の粉を使ってパンや麺を作ることや、休耕地で飼料用トウモロコシを栽培して畜産農家に供給することや、日本向けの大豆を確保するため、ブラジルで自ら生産を始めた企業もあると聞きます。
こういった事態に対応するためにも、近年の日本の農業を見直し、自給率を否が応でも上げる必要があるという指摘もあります。日本人の主食である”コメ”は、そもそも、どこから来て、どのような方法で栽培されてきたのかを知ることは、今後の自国の農業を見直す上でも大きな手助けになるのではないだろうかと思います。
イネ科植物の作物起源地を推定する方法として、埋蔵種子分析法や花粉分析法よりも有効な手段として、プラント・オパール分析法というものがあります。プラント・オパールとは、イネ科植物の特殊な細胞、「機動細胞珪酸体」が地中で名前を変えたものです。イネはもとより、ムギ類、アワ、ヒエ、キビ、トウモロコシ、モロコシなど、多くのイネ科植物の細胞壁に沈積しており、種によりその形状は異なっています。
本書が出版された時点での定説では、水田稲作は弥生時代前期に九州北部に伝わり、弥生時代中期に仙台付近まで北上し、その以北への伝播は8世紀以降というものでした。しかし、著者らの研究により、縄文時代晩期後葉(約2500年前)に伝えられた水田稲作技術は、約400年で青森・津軽平野に達した可能性が高いことがわかりました。琉球列島への水田稲作の伝播は九州から南下したことが立証されています。一方で、焼畑稲作に関しては、畑作系熱帯型ジャポニカが琉球列島沿いに北上したという説も出ており、九州の宮崎県の縄文時代晩期の遺跡で熱帯型ジャポニカが見つかっていることからも、その可能性が高いと考えられています。
日本列島への稲作伝播経路については、いくつかの仮説が出されています。1.長江流域から中国大陸を北上し、山東半島、朝鮮半島を経由して西北九州に到達したとする説、2.中国大陸をさらに北上し、遼東半島あるいは陸朝鮮半島にいたり、日本へ伝えられた説、3.長江下流域から直接西九州に伝えられた説などがあるようです。
イネの品種に関しては、奈良・平安時代を境にして、近代に向かうにつれ、イネのプラント・オパールの多様性が小さくなっています。その理由として、古代国家の朝廷が租税を徴収するため、水田稲作を奨励する政策を積極的に展開し、イネの品種に関しても優良品種への統一化をすすめたためだと考えられています。
水田稲作技術の特質は、1.連作ができること、2.収量が安定していること、3.平野水系における集団作業が必要であることが挙げられています。一方で、焼畑のシステムは作物の種類を年々変える輪作と、焼く旗用地を変える遷地の組み合わせです。また、焼畑は森林破壊というイメージがついているようですが、それは誤解で、実は森林と共存する農法であり、作付け休閑期間を設け、その間は森林にもどすため、森林として経過する間に腐葉土が蓄積し、つぎの焼畑が可能な条件を再生させます。ところが、焼畑は、1.農産物の商品化、2.山林の私有化、3.農業の機械化といった理由により衰退されたと考えられています。しかし、焼畑は典型的な自然農法であり、自然農法・無農薬栽培が注目される中で、数千年にわたって営々と続けられてきたこの技術には有意義なノウハウが詰め込まれているのかもしれません。
水田稲作は安定・多収であることから、余剰農作物の蓄積ができ、その貯蔵物の争奪が戦争に発展すると一般的に考えられています。また、水田は一度造成すれば半永久的に安定した生産が行えるため、焼畑よりも、大量殺戮を賭しても奪う、あるいは守る対象になり得たとも考えられます。日本人全体に土地神話と言われるほど、土地に対する強い執着が見られるのも、水田稲作の所産なのかもしれないと指摘されています。
水田は水資源の有効利用という視点からも環境保全に大きく寄与する技術です。水田に貯められる水量は、日本のダムの貯水量の2倍とも言われ、地下に浸透した水が下流域を潤します。もし日本人の主食が畠で栽培されるコムギだったとすると、貯水能力が低くなるために、大雨時にはひどい土壌浸食に見舞われることが予想されます。しかし、水田は、元来、平野森林であった土地を破壊して造成したものであり、それによって弥生時代には洪水が頻発した証拠が残っています。
縄文時代や弥生時代のイネの収穫法は石包丁や木包丁によって穂刈りが行われていました。また、水田では、多様なイネの品種が混作されており、このことにより出穂時期にバリアンスが生じ、異常気象や病害虫に対する一種の保険となっていたようです。
今後さらに、アジア人口が急増し、コメがさらに主穀の座を占めてゆく可能性も高いです。そのためには、人間の食糧と生存環境を維持する視点から、持続的農業生産のあり方を真摯に考えなければならないのかもしれません。その中で、安定・多収の水田稲作という近代農法は、そういった期待に応えうる食糧生産技術であると言えるでしょうし、一方で自然環境の保護という観点からは、焼畑稲作という自然農法から学ぶべき点も多いのではないでしょうか。
個人的な意見としては、再び水田稲作への単一化を行うよりも、予想が難しい気候の変動や病害虫への対策、またニーズの多様化へ応じるためにも、耕地、農法、栽培作物・品種のバラエティも増やしてゆくことが好ましいのではないだろうかと思っています。