インドの菜食主義に関するノート

インドを知る事典 / 山下博司・岡光信子(2011年)
インドを知る事典


食と文化の謎 / マーヴィン・ハリス(1988年)
食と文化の謎 (岩波現代文庫)


ヒンドゥー教ーインドの聖と俗 / 森本達雄(2003年)
ヒンドゥー教―インドの聖と俗 (中公新書)


ヒンドゥー教ーインド3000年の生き方・考え方 / クシティ・モーハン・セーン(2006年)
ヒンドゥー教 (講談社現代新書)


文化・環境・ヒトの定義付け
 文化とは、遺伝子によらず次世代へと受け継がれていく情報の体系と定義する。宗教、科学、食習慣、階級制、法律など。


 環境とは、ヒトを取り囲み、相互に関係しあって直接・間接的に影響をあたえる生物的・非生物の外世界と定義する。自然、食料、エネルギー、野生動物、家畜動物、植物、感染細菌・ウイルスなど。


 ヒトは、個体の遺伝子情報を次世代に受け継いでゆく生物的側面と、生涯で得た情報を同世代と共有し、次世代に継承していく社会的側面を持っている。人間は、繁殖により遺伝情報を次世代に伝えるだけでなく、教育や学習により文化情報を次世代に伝える活動も行う。


インドにおける菜食主義の歴史
 インド人は菜食中心の食事パターンを持つ。ヒンドゥー教徒仏教徒の多くは、肉食は避けても乳製品は食する。インドは世界でも有数の乳産業として知られる。加えて、動物だけでなく植物の殺生もなるべく避けて食生活を営むジャイナ教の人たちと、鶏卵食までは認めるオヴォベジタリアンもインドには存在する。ジャイナ教ヒンドゥー教徒仏教徒菜食主義者を合計した人口は、全国民の31%程度を占めるといわれる。それにオヴォベジタリアンを加えると、菜食主義者は、インド国民全体の40%程度を占める。残り60%の人口に関しても、菜食が中心で、肉の消費は最小限にとどまっている、という見方が一般的であった。


菜食主義離れ
 インドでは「菜食主義者」が多く、肉類の消費は経済発展及び経済成長とともにあまり伸びることはないであろうと想定されてきた。しかし、別のいくつかの指標でインド人の食料消費パターンをとらえてみると、近年において急伸する経済発展とグローバル化および所得の上昇を背景に、伝統的な「菜食主義の食生活」パターンは転換期を迎えている。
 過去20年のインドにおける肉類の一人当たり年間消費量を牛、羊とヤギ肉、鶏肉、豚肉別に比較すると、年間肉類消費の中でも唯一増加傾向を示すのが鶏肉である。生産量では、ヤギの生産が10年間に微増しているのに対し、鶏肉の生産は6割も増している。主要食料生産の中でも鶏肉の生産増加率は群を抜いている。動物性蛋白質の一人当たり消費量については、過去20年間に卵と魚介類の消費が代替財として増加している。動物性蛋白質の消費では、鶏卵、鶏肉、魚介類、ミルクの順に過去30年間の伸び率が高くなっている。インド人の年間牛乳消費量は日本人の摂取量に匹敵し、特に都市化とグローバル化の進展が著しいウッタルプラーシュ州、アーンドラ・プラデーシュ州、マハラシュトラ州等におけるミル クの消費の伸び率は高い。
 他方、鶏卵、鶏肉、魚介類の消費の伸びは、今後10年以上は継続する可能性が高い。インドにおける人口ピラミッドは若年層人口が増大する傾向にあることと、都市化の進展に伴う近代的なモール街の増加によってケンタッキーフライドチキンのようなファーストフードの舗数の増加が今後も継続するであろう。


サンスクリット化」
 都市部における中間所得層での「菜食主義離れ」人口が増加する一方で、菜食主義を獲得しようとする動きも見られる。村がこぞって菜食主義を採用し、集団全体のカースト的ランキングを高めようとする事例が観察されている。上位カーストの生活習慣を模倣・採用して個人や集団の地位上昇を図ろうとする動きや社会現象であり、総じて「サンスクリット化」とも呼ばれる。


菜食主義回帰
 中間層の食習慣の菜食主義離れに加え、労働時間の拡大にともなう食生活の乱れ、運動時間の減少も多く観察される。食習慣の変化が、健康に悪影響を及ぼす事例が増加している。現在糖尿病の患者は約5100万人と言われ、この数は「急速に右肩上がり」の上昇カーブを描き、2030年までには8000万人強が糖尿病患者になるといわれる。心疾患も3800万人から6400万人にまで増加するといわれている。肥満も問題で一説によれば都市部の男性の5人に1人、女性の6人に1人は過体重とのニュースもある。このところのファストフードチェーンの隆盛等で、子供の肥満も問題視されている。実際にインドの人たちの食生活を見ていると、間食の際に食されるスナックや飲み物が、脂肪分、糖分、塩分を多量に含んでいるのがわかる。
 こういった肥満や生活習慣病への懸念や治療のために、菜食料理を見直す動きが見られる。特に、20代、30代の男女において、インドの伝統知識である「アーユルベーダ」のクリニックに通って、治療や食事療法を受けたり、「ネイチャー・キュア」の施設で集中的に治療を受けたりする事例も増えている。「アーユルベーダ」も「ネイチャー・キュア」も、菜食中心の食事療法を奨める。場合によっては、牛乳を飲む事も制限される。元来、菜食主義者の多かったインドでは、スーパーの商品には、「ベジタリアン食品」と「ノン・ベジタリアン食品」を識別するラベルの表示が義務づけられており、レストランやファーストフード店などの外食飲食店でも両者は区分されている。従って、ベジタリアン食品や菜食料理を選択することは容易であるが、菜食主義を実践することについては個人差があるように思われる。


 元来、菜食主義は、ヒンドゥー教の重要な教義のひとつであり、その教義は仏教およびジャイナ教の生命絶対尊重(不殺生)の思想に起因するところが大きい。そもそもヒンドゥー教の根本聖典であるアーリア人バラモン教の書物「ヴェーダ」では、「不殺生」は説かれておらず、ヒンドゥー教は、紀元後4世紀〜6世紀のグプタ朝時代に確立するまでの間に、「ウパニシャッド哲学」や土着の信仰を吸収しながら、仏教とジャイナ教の「不殺生」を教義として取り入れた。ヒンドゥー教において「不殺生」は、菜食主義として解釈され、実践されるようになる。特にカーストの高位の者ほど菜食主義が徹底され、ウシ、ブタ、トリなどの動物の肉を食さず、植物性の食物に限定した食生活が維持された。


インダス文明
 遅くとも紀元前2,500前頃から、インダス中・下流において約60の都市における計画的な市民生活が営まれていたことを示す明確な証拠が挙げられている。ドラヴィダ人による都市文明とされるが定かではない。人々は、金、銀、銅、錫、鉛、青銅といった金属や鉱物の使用法を知っていた。食物としては、小麦、大麦、果実、肉、魚類が発見されていることから、菜食主義ではなかったことが伺える。また綿を栽培しており、織物や染色も行われていた。高度に計画された道路や下水道施設は、行政機構が発達していたことを示している。多くの美術品も見つかり、表意文字も使用されていた。商人階層が活躍したいたと推測される。遺跡には多くのヨーガ行者と思われる像、ヒンドゥー教のパシュパティやシヴァ神像、女性の粘土像も遺っている。ヨーガと瞑想はこの時期に起源を持つものと考えられている。


ヴェーダ時代
 中央アジアが出自で遊牧民アーリア人は、前1500年頃、インド西北部に侵入し、前1100年頃には、ガンジス川流域に移動し、定着した。アーリア人は鉄器文明、米・小麦の栽培を持ち込み、前7〜5世紀の間には、農業・商工業が発達した。アーリア人のインド定着にともない、自然を神格化し、崇拝する「バラモン教」を信仰した。民族の繁栄と除災招福を祈る賛歌を「ヴェーダ」に集め、供犠や供物をともなう煩雑な祭式を遂行した。一方、「カースト制」も成立した。理論上は、次の4カーストのみが存在することになっている。1.バラモン(司祭者、宗教教師)、2.クシャトリア(王族、すなわち王、武士、貴族)、3.ヴァイシャ(庶民、すなわち貿易業者、商人、農民その他の職業の者)、4.シュードラ(隷民、すなわち農奴、召使い)である。ただ、実際はもっと階級が細分化されていたことを示す記録も遺っている。また、アーリア人がインド侵入以前から、インドにはすでにある種のカースト制が存在しており、アーリア人がそれをうまく利用したとの説もある。アーリア人中央アジア起源の遊牧民であり、祭式では動物を供犠することから、不殺生の観念は持たず、菜食主義でもなかった。


ヴェーダ思想のヒンドゥー思想への同化
 前7〜5世紀に、社会変動と革命思想の台頭が起こる。マガダ、コーサラをはじめ16王国の形成にともない国家統一の新しい理念の必要性が高まる。一方、商工業の発達にともない貧富の差拡大による社会不安が生じる。そんな中、煩雑な祭式を行っているバラモン教への批判が高まる。「ウパニシャッド哲学」はが、バラモン教形式主義に反対する少数のエリートにより思索・統合され、人間の内面的自覚を重視する哲学を展開した。一方、アーリア人由来のバラモン教を中心とする文化をヴェーダ文化に対して、土着の下層の大衆が伝承した非ヴェーダ文化は、後のヒンドゥー教の確立に大きな影響を与える。非ヴェーダ文化の特徴は、行為、規則、慣習などの細かい規定があり、実践的な知識が多く含まれている。この時代に誕生したジャイナ教と仏教の教祖は、いずれもヴェーダを重んじるバラモンではなく、非ヴェーダ文化の中から生じたとも言える。いずれの宗教も生命の絶対尊重(不殺生)の徹底を説いた。後4世紀から6世紀に成立したグプタ朝のチャンドラグプタ2世時代にヒンドゥー教確立の際に不殺生が採用され、多くのヒンドゥー教徒を菜食主義に転向させた。


 アメリカの文化人学者マーヴィン・ハリス(食と文化の謎,1985年)は、菜食主義がヒンドゥー教に取り込まれた経緯について、牛をめぐるエネルギー収支の観点から考察をしている。遊牧民の文化を持つアーリア人にとって、牛は富と力の象徴として扱われた。しかし、彼らの定着が進むにつれて、半牧畜生活様式は、集中的な農耕と酪農に代わり、同時に人口問題や森林の縮小といった環境問題が生じた。それは、牛と人間が食料を巡る競合を意味する。牛肉を食べた場合のベネフィット(カロリー)は、与えた穀物のコスト(カロリー)よりも下回っていた。牛を家畜・役畜として利用する方が、農耕地から失われるカロリーが少なくて済み、結果的により多くの人間を養えたがために、牛は保護されるようなった。特に、こぶ牛については人間と食料が競合せず、過酷な農作業にも耐えうる体力を持ち、雌からはミルクが得られ、糞は燃料に使えるといった多くのベネフィットをもたらしたがために、神聖視されるようになった。一方、食料不足に苦しむ農民や商人などの大衆にとっては、肉食を禁じる仏教やジャイナ教は、当時の食料不足の状況においては理にかなったがために広く受け入れられ、マウリヤ朝アショーカ王クシャーナ朝カニシカ王は、仏教を保護し、グプタ朝のチャンドラグプタ2世の時代には、不殺生を教義とするヒンドゥー教が確立した。


動物との関わりについて
 インドでは、動物は畏敬や崇拝の対象とされてきた。ヒンドゥー教には、獣の姿をした神々がいる。象の頭を持ったガネーシャ神、猿の姿形をしたハマヌーン神、コブラの形をとるナーガ神は人々にとりわけ人気がある。動物そのものを神として崇めることもある。こぶ牛は神聖視されているのは有名であるし、地方によってはサルやコブラも神の化身であるという信仰がある。古代バラモン教では、供犠の習慣があったものの、生命は原則的に平等であり、そこには人間と動物の優劣は説かれていなかった。不殺生を説くジャイナ教では、動物はもちろん植物も生きものと見なし、断食によって死に至った信者も存在した。現在でも、人々はジャイナ教寺院で食事することを好み、肉類をはじめ卵、植物の球根部分は食さず、料理もチリなどの辛みのスパイスを使わないものを食する傾向がみられる。同時期に成立した仏教は、植物は生きものとしてはみなさないが、無意味に損なってはならないという教えがある。
 このようにインドには宗教の影響から動植物をむやみに害してはならないという文化が人々の間で受け継がれてきた。ただし、現実社会では、必ずしもいつも動植物が尊重されてきたとは限らない。こぶ牛は神聖視されているが、農家が雌雄の割合を調整したり、餓死させることによる間引きが行われたり、色の黒い水牛は神聖視されておらず、必要でなくなった個体は、こぶ牛同様に餓死させられるか、イスラム教徒へ売却され、食肉にされてきた。南部のケーララ州は、イスラム教徒とキリスト教徒が多いという影響もあるが、闘牛の文化がある。
 古代インドにおいて、肉食から菜食への転換期があったが、人々が菜食を選ぶ、あるいは肉食を選ぶという要因には、必ずしも宗教の戒律といった社会で共有される規則だけでなく、食物の量やエネルギーの量といった物質的な要因はもちろん、人々の健康志向といった生存を維持させようという意思や、宗教が元来持つ「憐れみ」や「罪悪感」といった感情的な面も考慮する必要がある。


機能主義
人間行為の目的を欲求充足にあると考える。しかしながら個人ではそれらの欲求を満たすことができないために社会システムを形成し、目的や手段、条件としての他者との共同の欲求の充足を目指すことになる。生物学とのアナロジーである。「形態学」と「生理学」は、「構造分析」と「機能分析」の対比に移し替えられた。デュルケムによる分業の機能の説明や、ブラウンによる親族の機能。一方、マリノフスキーは、社会構造という概念には依拠せず、充足されるべき欲求や必要を持つ存在として個人を重視した。