花と木の文化史 (岩波新書) / 中尾佐助 (1986年)



この本を読むと、日本の花文化の歴史は深くそしてかなり高度なものであったのだと感じさせれます。それゆえに、簡単には理解できないものもあり、評価されにくい側面もあるようです。ただ個人的には、イネなどの作物の栽培でもそうですが、花卉においても日本人の直感や感性の鋭さは遺憾なく発揮されており、ある意味では誇りできる文化の一つなのではないだろうかと思いました。


日本では奈良朝時代にすでに植物を美学的に評価する文化が成立していたと言われます。万葉集に登場する植物を頻度順に並べると、ハギ、ウメ、マツ、モ(藻)、タチバナ、スゲ、ススキ、サクラ、ヤナギ、アズサです。ちなみに、聖書では、ブドウ、コムギ、イチジク、アマ、オリーブ、ナツメヤシ、ザクロ、オオムギ、テレビンノキ、イチジクグワであり、上位9つまでが実用植物です。しかし、二次林で目立つハギの登場頻度が高いことは、万葉時代にはすでに自然破壊がすでに進行していたことを物語っています。


キクは、平安時代には渡来していたようで、鎌倉時代後鳥羽上皇が好んで、その紋様を衣服などにつけたことから、皇室の菊紋章の起源になったと言われています。
室町時代には、中国に形成された東洋花卉文化の第一次センターから側芽をだして、日本という第二次センターがぐんぐん伸び始めました。その背景には、家族構成の変化、嫁取婚の定着、農業生産力の向上、衣食住の充実などが挙げられています。室町時代には、ツバキの改良、サクラの花を花見として観賞することが始まったとされています。
サクラと日本人の強い結びつき、あるいは、世界中を見渡してみると、特定の植物と宗教、信仰、儀礼との結びつきを発見することができます。しかし、このことについて、著者は以下のように述べています。


こうしてみると、特定の植物と宗教、信仰、儀礼との結びつきはさまざまな程度があることがわかる。その事例をとりあげ、民俗学者がよくやるような過剰な意味づけをするより、私は単なる習俗と軽く受けとめたい。習俗と受けとめれば、その習俗の起源、伝播、変遷という別な面をみる面白さができくるというものである。日本の古代のサクラとツバキは信仰との関係より、美学上の価値評価にこそ問題がある。



必然的な意味づけよりも、偶然的な出会いという意味でしょうか。ここに中尾佐助の感性を垣間見ることができるように個人的には思えました。


数多くある品種の中から、数種だけが人の文化の中へ取り入れられていくことについて、著者は、伊豆半島オオシマザクラを例に、


適当な程度の自然破壊があると、自然生態系が攪乱され、今まで棲み分けしていた近縁の種類が隣りあって生長する。それが自然交雑したり、変化した環境に適応していろいろな奇形的な個体が生まれてくる。そうしたものの中に鑑賞に適したものができた場合、その近くに文化人がいると、これを選んで栽培するようになる。こんな条件がうまく鎌倉にあったのである。



と述べています。環境の変化が植物の変異を生み出し、それをきっかけに偶然に人の世界へ取り入れられていくのでしょう。


なんといっても、日本の花卉園芸文化が大発展を遂げたのは江戸時代です。江戸中期には西ヨーロッパよりも進んでいたとも言われます。江戸期の日本の園芸文化の特色を数えあげると、つぎのような諸点が指摘できます。

 (1)園芸文化が世界に先がけて、庶民の末端まで普及した。
 (2)中国の花卉文化がシャクヤク、キクなどを除いて、庭木の花木類が中心であったのに、日本では草本性のサクラソウハナショウブなどを園芸化し、それを改良して多数の変わった品種をつくりあげた。
 (3)古典園芸植物とよばれるいくつかの小型の栽培植物を尊重して、奇妙な品種をつくりだしてきた。
 (4)変化咲きアサガオとよばれる、毎年その種子を創造的な手法でつくりだす園芸、つまりパフォーマンスの極地の園芸が生まれた。
 (5)造園用の特色のある樹木、灌木の品種がつくられ、ツツジ類や針葉樹のヒバ類と総称されるものが成立した。
 (6)盆栽が中国的な盆景から蛸造り型をへて、自然美型盆栽へとすすんだ。
 (7)斑入り葉のある斑入り植物の価値を認識し、きわめて多種類のそのような品種を世界に先がけてつくりあげた。
 (8)花見や菊人形のような大衆の参加する花卉文化が発展した。
 (9)花卉の同好団体が多く誕生した。
 (10)植木屋、庭師といった花卉園芸文化の専門業者が出現した。また園芸書の出版がはじまった。



さらに驚くべきことは、西欧では当たり前であった人工交配による品種改良が、日本ではほとんど行われていなかったことです。稲の優良品種をつくった農民の手法とまったく同じように、経験と直感を頼りとして、変ったものすぐれたものを選び出すという手法によっています。


江戸期には、日本原産の草本性の花卉がいくつも大改良されており、その中でもハナショウブツツジ、サツキが最もな例です。この草本性の花卉の発展により、庶民への文化の浸透が強まったと見られています。盆栽は、実は中国が源で、今の形、すなわち「自然美盆栽」となったのは明治の国粋主義の影響を受けてからのようです。落葉樹のカエデは、栽培下で多数の品種を生み出すことができた唯一の植物とされ、世界的にも評価が高いです。万葉集でハギについで2番目に多く登場するウメは、本家の中国も日本もともに改良が進展して、その過程で相互に影響があり、江戸期には日本が中国を凌駕していたと見られています。庶民的な花のアサガオは、平安時代にはすでに渡来したいたようで、江戸時代には2度、明治時代に1度大流行を経験しています。


しかし、この日本の古典園芸植物の文化が、明治以降大勢として衰退し、または日本以外の国には受け入れられませんでした。その要因として、著者は、古典園芸植物は子どもにもわかるような、一見して明快な美しさを欠いていると述べています。これらの美学に対しては教養と知識が必要であり、物事でも芸術でも、再興段階になると、それは本来の姿を失ってくるものだと説明されています。