今までに、20余ある大徳寺の塔頭のうち、興臨院、龍源院、大仙院を拝観したことがあります(→過去の記事)。今回新たに黄梅院と高桐院を観ることができました。といっても、通年拝観謝絶の塔頭の方が多く、あいにく今回も瑞峯院は現在改修工事中、芳春院と孤篷庵も現在非公開で、まだまだ課題を残した感があります。このように俗化を拒む姿勢が、逆に大徳寺たる所以なのかも知れません。そう焦ることでもないでしょう。一休み、一休み。
ちなみに、かの司馬遼太郎さんは大仙院の枯山水の庭がお好きだったとか。「街道をゆく〜大徳寺散歩、中津・宇佐のみち」では、大仙院、高桐院、孤篷庵、真珠庵、芳春院などについて書かれています。
黄梅院
1563年に戦国期の茶人武野紹鴎や門弟の今井宗久が春林宗俶に帰依して小庵を建てたのがはじまりで、20年後に豊臣秀吉や小早川隆景が改築しました。
武野紹鴎作と伝わる昨夢軒(さくむけん)という4畳半の茶室、千利休の作庭という直中庭(じきちゅうてい)があります。
書院「自休軒」は、伏見城の遺構を移したものと伝えられ、大徳寺開山・大燈国師(宗峰妙超)の遺墨「自休」を遍額に懸けて軒名にしたものです。一休宗純さん、千利休の「休」という文字もここからとったとも言われています。
「自休」とは、自ら(おのずから)立ち止まって真剣に物事に対していくこと、一考していくことを意味しているようです。
立派な牡丹です。
千利休の作庭という直中庭(じきちゅうてい)
興臨院
1521年〜1528年に能登の畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立、以来畠山家菩提寺となりました。畠山家が衰微したのち前田利家が1581年に修復。
高桐院
細川忠興が父親の細川藤孝の菩提を弔うため、叔父の玉甫紹蒴を開山として1590年に建立しました。
庭の西に石灯籠を墓として細川忠興とガラシャ夫人を葬る一角があります。この石灯籠は千利休が天下一の優品としたところ、秀吉がその名声をきき所望したそうです。そこで利休は灯篭の笠の部分をわざと欠いて、断ったといういわくのあるものです。
芳春院
孤篷庵