国際秩序 - 18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ / 細谷雄一(2012年)

国際秩序 - 18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ (中公新書)


★本書では、秩序体系を3つの概念を用いて説明しています。それは、「均衡の体系」、「協調の体系」、「共同体の体系」です。これらは、近代ヨーロッパが生んだ国際秩序の基本体系です。


「均衡の体系」とは、軍事力や主権国家といった力による威嚇のもとで維持される秩序です。17・18世紀前半のヨーロッパがそれにあたります。軍事力や戦争を通じて国際秩序が確立されていました。ホッブズ無政府状態の「力と恐怖」による秩序です。
17世紀前半のヨーロッパは、宗教戦争に彩られていました。30年戦争ではカトリックプロテスタントの間での際限のない殺戮が続きました。ブルボン家のフランスとハプスブルグ家のオーストリアとの間の二極的な覇権争いが国際秩序でした。18世紀前半にはスペイン王位継承戦争、大北方戦争オーストリア継承戦争を通じてフランス、イギリス、オーストラリア、ロシア、そしてプロイセンの5大国が、多極的な勢力均衡の体系を作り上げました。この頃から、共通の利益の絆が生まれ、外交制度の確立を通して諸問題を交渉によって解決しようとする動きが生じ始めました。ところが、この多元的な勢力均衡は、18世紀末〜19世紀初頭に起きたフランス革命とナポレオンの侵略戦争によって破壊されます。フランス革命により君主制的統治原理が崩され、ナポレンオンの侵略戦争をきっかけにナショナリズム原理が広まりました。


「協調の体系」とは、国家間で利害の対立の調整が行われ、共通利益のもとで維持される秩序です。19世紀の「ウィーン体系」がそれにあたります。スミスの共通の利益で結ばれた「商業的社交性」による秩序です。
19世紀初頭のオーストリアメッテルニヒ主導下のウィーン会議での協調5大国のイギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、フランスで構成される「ウィーン体制」時に、再び「協調の体系」が回復します。ここでは、関係当事国の相対的な安全は、裏を返せば相対的な危険を意味します。一国が一人勝ちをしないように干渉しあう拮抗状態です。ところが、この「協調の体系」もバランサーであったイギリスのカースルレイ外相の自殺をきっかけにリベラリズムの色合いを強めたイギリスは、協調の均衡ための関与を減少することにより崩壊し始めます。その後、フランスの軍事力を恐れたオーストリアはロシアに接近します。オーストリア、ロシア、プロイセンの3国は保守色を強めていきます。19世紀半ばのクリミア戦争で5体国間で大規模な戦争が起こります。ロシアの軍事行動に不快感と警戒感を強めるオーストリア、イギリス、フランスがトルコ(オスマン帝国)の後ろ盾をします。戦争に踏み切ったのはナポレオン3世でのフランスで、結果的にパリ条約で偉大な勝利を手に入れます。


クリミア戦争後の動揺したヨーロッパで決定的に重要な役割を担ったのが、プロイセンの国王首相であるビスマルクでした。「鉄血政策」を推進し、17・18世紀にみられたような「力の均衡」によって国際秩序の安定を回復しようと試みました。「協調なき均衡」です。ロシア、オーストリアとともに脆弱な「三帝同盟」を結び、フランスを孤立させます。プロイセン(ドイツ)は、地理的にも大国の挟まれる位置にあり、大国間の戦争が起きるたびに巨大な被害を受けて来たという歴史があり、民衆の間にも隣国への警戒心や敵対心、裏を返せば愛国心ナショナリズムが生じやすい「集団心性」があったとも言われます。ビスマルクの政治はそういった時代精神の上に立脚していたのかもしれません。ドイツ帝国のヴィルヘルム2世の時には、ロシアは遠のき、フランスに接近します。このことで、ドイツは孤立化し、20世紀初頭にはフランス、ロシア、イギリスの三国協商により、包囲化されます。


20世紀初頭、ドイツ、アメリカ、日本という3つの新興国が急速に台頭する中で、イギリスはこれら3国すべてと敵対関係に入る事は避ける必要がありました。ドイツとは戦力均衡政策に基づいた対抗の論理で対応する一方で、日本とは便宜的な友好国となり、アメリカとは和解に基づいた協調関係を模索していきました。イギリスは東アジアでの勢力均衡を維持するために日本と日英同盟を結びます。日本は、近代国家として発展するドイツを手本として多くを学ぼうとします。日清戦争日露戦争といった大国への勝利も追い風となり、次第に日本は国際的な地位を得る事ができ、非ヨーロッパでありながら、次第にヨーロッパで価値観が共有されるようになります。


ヨーロッパの秩序は2度の世界大戦により挫折します。第一次世界大戦後には、勢力均衡が崩壊します。その要因として、第一に、軍事大国ドイツの勢力拡大、第二に民主主義を世界に広めようとするアメリカ、人種平等やアジア主義イデオロギーと主張する日本、共産主義イデオロギーを掲げて世界革命を唱えるソ連が台頭、第三に、アメリカでの急進的なリベラルの思想に基づく平和理念である「共同体の体系」を求める動きが挙げられます。


「共同体の体系」とは、国境を越えた市民の活動に注目し、一つの共同体として維持される秩序です。20世紀の国際連盟国際連合がそれにあたります。カントの「民主的平和論」による秩序です。
「共同体の体系」が初めて具現化されるのは、ウィルソンが秩序原理を提唱した「国際連盟」でした。パワーの物質的大きさによって国際政治を語る事を拒否し、民主主義の価値に信頼を置き、道徳や政治理念の実践することで平和が可能だと考えられました。
ところが国際連盟による秩序は、満州事変とヒトラー政権の成立により挫折へと導かれてしまいます。日本、ドイツ、イタリアといった国際連盟の理事国が自国の利益を求めて領土拡大に乗り出し、第二次世界大戦が勃発します。道徳や国際世論では軍事行動は阻止できず、むしろ力による平和がある程度維持されました。当時イギリスの首相のウィンストン・チャーチルは、勢力均衡の前提に、ドイツに対抗し、アメリカやソ連と協調することを模索します。この同盟国であるイギリス、アメリカ、ソ連にフランスと中国を加えて、後の国際連合の常任理事5体国となります。また、チャーチルは、自由や民主主義の信奉する英米両国を中核とした英語諸国民と、ナチズムに代表される専制的国家と対比させて、国際社会が共有すべき価値を語ります。さらに、国際秩序の中核に位置するのは英語諸国民であるという考えのもと、安定的な国際社会を構想し、英米間で共有された大西洋憲章として宣言されました。これが冷戦の起点にもなってしまいます。大戦直後には、アメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連、日本という軍事的パワーを保持する5体国のうち、日本とドイツがアメリカ側につくのか、ソ連側につくのかというのが、グローバルな安全保障の面から最も大きな懸念事項であったと言われます。ソ連膨張主義に対して西側同盟は軍備増強を進める必要を強く認識し、西ドイツはNATOに加盟させ、日本には日米安保理を成立させ自衛隊を創設させます。冷戦時は、米ソ間の核兵器の軍拡競走という力の均衡により国際秩序が保たれました。連合国共同宣言や国連憲章といった一定の価値の共有が行われたという点では、かつてのヨーロッパで見られた「協調の体系」や「均衡の体系」よりも一歩進んだ、より安定な秩序が維持されていたと指摘されています。東西ドイツの統一、ソ連の崩壊をもってして、国際社会は「リベラルで民主主義的な秩序」が到来を予感しました。


東西ドイツ統一と同年にサダム・フセインイラクが、クウェートに侵略しました。アメリカの(父)ブッシュ大統領は、「新世界秩序」を描いてみせ、国連安保理の承認のもと、アメリカ、ソ連、フランス、イギリスから成る多国籍軍を指揮し、武力制裁を加え、湾岸戦争において大勝します。ところが、次の選挙でブッシュはクリントンに大敗します。アメリカ経済の立て直しを強調したクリントンですが、外交面で苦戦し、成果が挙がりませんでした。ただ、「民主主義の平和」と「共同体の拡大」というアメリカの国防戦略を明確に示したという点では大きな功績を残します。東アジアの外交においては、日米安保理の積極的な意義の確認し、アメリカの均衡の体系に依拠した安定のための関与の継続が明らかになりました。
1993年にハンチントンが「文明の衝突」によって提示される世界秩序観は、これまでの冷戦後のブッシュ的「新世界秩序」とは全く異なったものでした。そこでは、異なる文明下にある国家や集団によって引き起こされる文明の衝突が、今後の世界政治をめぐる紛争の主な要因となると予言しました。今までは国際的な構造が変革し、単一のものへと収束する(ソリダリズム)と信じられてきましたが、現実的には各国は自助原理を前提とし、多様であり(プルラリズム)、統一化は挫折するという考えです。
イギリスのブレア首相は、ソリダリズムを推進し、イラクコソヴォシエラレオネアフガニスタンイラクと慌ただしく軍事介入します。一方、2001年に成立したブッシュ政権は、自国の国益と安全を最優先し、イラクに対して好戦的な立場をとります。9.11テロの勃発に受け、ブッシュもブレアも善悪二元論的な価値観でとらえます。世界は再びパワーが支配する「対テロ戦争」に時代へと変貌します。


オバマ大統領が自らを太平洋地域の大統領と位置づけたように時代の中心は大西洋から太平洋に移りました。日米中の関係を考えた場合、3国間では「協調の体系」の強化、中国に対する日米の関係は「均衡の体系」という枠組みが重要と言われます。ただ、環太平洋地域では、日米同盟や米韓同盟といった二国間の同盟が個別にあるだけで、中国を含めた多国間の安全保障はまだ締結されていません。クリントン国務長官が述べるようにアメリカの将来はアジア太平洋地域と結びついており、これらの地域の将来はアメリカによって大きく左右されます。


このように近代のヨーロッパから最近のアジアの情勢の国際秩序の歴史をみてみると、日本にとってアメリカと中国のどちらが必要かという選択は意味を持たないことがわかるし、アメリカと中国の両国とも日本にとって重要であるというのだけでも十分な回答にはなりません。


「国際秩序とは何か」という軸で世界を理解することがまずは大切だと締めくくられています。