ベルクソンと開いた道徳 −「愛の飛躍」の本質について− / 西平哲次 (1994)

ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』について、だいぶん読み進めました。西平哲次氏の論文『ベルクソンと開いた道徳−「愛の飛躍」の本質について−』では、カント、ニーチェシュヴァイツァーの思想との関連性が考察されており、非常に勉強になりました。この論文を読解することにより、さらに理解を深められればと思います。


ベルクソンは、「閉じた社会」では、閉鎖的、排他的感情が支配的だとし、「閉じた道徳」が行われるといいます。これに対して、「開いた社会」では、根源的生命力の創造的飛躍に合一し、生の飛躍(生命の跳躍)は、愛の飛躍にまで高められます。


『二源泉』の書かれた意図は、新しいモラルの発明ではなく、タイトルが示す通り、道徳(宗教)の根拠を新たに指摘し、その理由を明確にし、確認することである、とベルクソン本人は述べています。


道徳の源泉は、社会がその時代に作り上げる責務であり、個人に対する圧力であるとベルクソンは認めます。ただし、このような社会的決定論によって道徳の本質が説明されたとは考えず、個人の自発性に基づく道徳本来の姿を明らかにすることに努めます。特にキリスト教道徳の優位性と神秘主義の本質の考察により、動的な人類道徳を「開かれた道徳」として立証します。


高度な知性を持つ人間は、反省を行い、自己本位に行動しうる存在です。ゆえに、社会を安定化させる反面、その秩序を破壊する危険性も持っています。道徳的責務とは、知性による解体作用に対する本能的な自動防御装置として生じたと説明されます。


定言命法」を示したカントのいう良心とは、生得的、知性的な道徳的素質であり、実践理性そのものを意味します。ベルクソンの立場からは、この定義は、事実上存在しているある実在事象の翻訳にすぎないことになります。知性にのみ訴える合理主義的道徳は、社会的本能、すなわち、「閉じた社会」から脱しえないものです。


ベルクソンは、未開人と文明人の社会は、知識と習慣の蓄積量こそ異なるが、質的には類似していると指摘します。両者とも「閉じた社会」だというのです。祖国愛は、家庭愛の延長でありえるが、人類愛は前二者とは本質的に異なると強調します。人類を愛せるのは、ただ神を通して、ただ神においてのみであるのだと説きます。


「開いた道徳」へは、道徳的英雄に対する憧憬によって人々は駆動されるといいます。まるで音楽が人をひきつけるように。それは、圧力ではなく、招きであり、人格の呼びかけです。「開いた社会」では、人間は社会と一体をなし、ともに個人と社会の保存という同一の働きを行います。その点で、功利主義社会主義的倫理、カントの義務倫理とは、質的に異なるものと言えるのでしょう。


「閉じた道徳」から「開いた道徳」へ跳躍させる力は、情緒の力であるといわれます。情緒といっても、喜怒哀楽といった表象的な感性ではなく、芸術家が作品を生み出すときに生じるような生命力に溢れた創造的能力を重視します。したがって、道徳的英雄とは、意志の天才であると言えます。創造的情緒に駆動された人間には、静的な安楽の「快感」以上の、動的な情熱の「歓喜」が生じていることでしょう。


「閉じた道徳」と「開いた道徳」は、「生命の飛躍」を根源的起源としています。道徳の英雄や宗教の神秘家たちは、自らの内奥に沈潜し、自己を創り出した「生の飛躍」そのものを直観することによって、自己を超越して、神の創造に参与したと言われるのです。


本論文では、ニーチェの権力意志説がもっていたエゴイスティックな側面は、ベルクソンの生命の発展のしるしである「愛の飛躍」という人格性の原理により克服されると解釈されています。


また、シュヴァイツァーベルクソンに最も近い思想家として挙げています。すなわち、「生の飛躍」と「愛の跳躍」の思想と、シュヴァイツァーの神秘的な「生きんとする意志」による「生命への畏敬」の思想との共通点を指摘しています。


ベルクソンは、キリスト教神秘家として、数人の歴史的に偉大な聖人を列挙し、彼らの徳性として、行動への熱意、堅忍、予言的な識別力、単純の精神、優れた良識を指摘しています。また、本論文では、古代ギリシアにおいては、ソクラテスが宗教的、神秘次元の者として挙げられると言及されています。


所感としては、ベルクソンの思想を読むときに注意すべきは、まず、「閉じた〜」と「開いた〜」と二元論を独り歩きさせてしまわないことです。また、いくつかの宗教について吟味され、結果的にキリスト教に軍配が上げられているようにもとれますが、これについても決してどの宗教が良いかどうかと外面的な品定めを行ったのでもないというのも念頭におきたいです。神秘家についても然りです。倫理学的に見てみるなら、義務倫理よりも、功利主義よりも、徳倫理との親和性が読み取れそうなところが、ひとつの旨みかもしれません。