どんな視点で個人の行為をみるのか

倫理学的考察能力を身につけること」に関して、もう一歩考えてみたいと思います。それは、客観的に考察することが重要だと考えていることには変わりはないのですが、「どんな視点で個人の行為をみるのか」という問題があると思うのです。


自分は、個々人の「行為の客観的妥当性」だけでなく、行為する以前に抱いている「主観(心あるいは倫理観)」も対象にするべきだと考えています。なぜなら、そうしないと、現代の倫理学の盲点を継承してしまう可能性があるからです。


というのも、最近の倫理学では、「そもそも倫理とは何か」とはほとんど問われることはなく、実践的な場面で生じる問題に対して具体的な処方を与えようとする傾向が強まっているとされるからです。


たとえば、「経済的価値を判断根拠にすると、このように行為するのがよいと考えられる」とか、「ある行為は、この宗教教義をもとに判断すれば、許されない」とかといったように、「何をなすべきか、否か」、あるいは、「何が許されて、許されないのか」と、何を選択するのが妥当(合理的)なのか(だったのか)と考察することに現代の倫理学は尽力しているというのです。


しかし、例えば、森岡正博氏の『生命学』の主張では、ある人間が心に抱いている「よき生のあり方(倫理)とは何か」について議論を行うことの重要性が説かれているように読み取れます。


なぜそのような主張がなされるのか。


最近の社会では、個人のある行為の「よさ」について、それが規則に則っていたのか、義務に従ったのか、利益を生んだのかというように、事後的に評価がなされる傾向が強まっています。勇気、忍耐、寛容など、それらがよい結果を引き起こしたり義務に履行したりするから評価されるのであり、それら自体が「よきあり方」だから肯定されることはほとんどないというのです。


しかし、そもそも個人は、「何をなすべきか」という問いよりも以前に、「よき生とは何か」「よきあり方とは何か」と、意識的にしろ、無意識的にしろ、なんらかの観念(倫理観、理念)を抱き、その上で行為を選択していると思えます。よって、ある人間が、「何をよきもの」とした上で行為しているのかと考察することが最も重要なのではないだろうかと考えています。


そのように考えると、環境問題の中でも生物多様性の保護活動の現場においても、それぞれの主張が「何を尊重しようとしているのか」「どんな倫理観を持っているのか」について第一に考察すべきであり、その次に、それにともなう行為が、結果的に、ある観点からは「よい」とされるが、別の観点からは「悪い」とされるといったように、その行為の妥当性を評価(考察)すべきだと考えています。


簡単にまとめると、「倫理学的考察」の中でも、個々人の行為を評価するに当たって、「事前にどのような選択肢があるか」、あるいは、「事後にその行為には妥当性があるか」と考察がなされがちであるが、「そもそもの個人が抱いている“よきあり方(倫理観)”について考察すること」が第一ではないだろうかということです。