心理学的死生観の臨界点―キューブラー=ロスをめぐって/ 堀江宗正(2006年)



この論文は、死生学の先駆者として影響力のあるキューブラー=ロスを取り上げ、その思想を、心理学者のよる代替宗教的な思想の一つとして特徴づけることを目指したものです。


死の過程の五段階の意義を、否定と受容の葛藤の分節化に求め、そのような葛藤が問題になる背景として医療の高度化と死期の延長と葛藤の可視化、また、死後生肯定を導く三つの要因として、否認と受容のパラドクス、真正性の倫理、看取りと分かち合いの共同体に再構築を指摘しています。患者の臨死体験の受容から、死後生の肯定に「回心」したという筋道を明らかにし、この立場を、実在論的だが個人の内的確信の立場にとどまり続けるスピリチュアルな死生観として特徴づけています。


一般人にとっては、広い意味で宗教性がもっとも現れやすい場面とは、死と生をめぐる問題であると言われます。そこでは自己の存在の意味が問われ、死後のヴィジョンが想像されます。このようなテーマについて心理学者が展開した代替宗教的な思想について検討が行われています。


宗教的死生観は、永遠の生命を肯定し、死にまつわる否定的な感情を押し殺そうとします。一方、ニヒリズム的死生観は、死によってすべてが消滅するのだから生は無意味だとします。著者はこれらに対してフロイトフランクルが提示した死生観を「心理学的死生観」と呼んでいます。これは、死の現実性を前にして起こる、否定的な感情を直視し、それでいてなお生の意味や価値を肯定し、心的現実としての死と死後生を心理学的用語によって再記述しようとするものです。


キューブラー=ロスの『死とその過程』は、後のターミナル・ケアの実践や思想に多大な影響を及ぼしました。フロイト同様に彼女は、人間が無意識において自分は死なないと思っているとした上で、死を真正面から見ようとしない、死について語ろうとしない医者や病院の姿勢、そして伝統的な宗教の死生観を徹底的に批判しました。


死の否認への批判に加えて、理論的に有名なのが五段階説です。死に向かう患者の心理を五段階に分けて記述したもので、それは否認と孤立の段階、怒りの段階、取引の段階、抑鬱の段階、受容の段階に分けられます。著者は、この理論の妥当性の検証への関心はないとした上で、むしろ、死に対する否定的態度と肯定的態度との混合、すなわち、相反する傾向性の葛藤としてみることができると指摘しています。キューブラー=ロスの問題関心のあり方は、死を否認するか、受容するかという問題に還元され、宗教的死生観とニヒリズム的死生観の対立のような世界観をめぐる対立ではないと述べられています。彼女は、死の宗教的否認の力が失われた社会において、解決策として信仰の回復ではなく、世俗的なセラピーによる死の受容を目指しています。心理学的死生観は、単に、個人個人の死のイメージの記述の支援などという形式的な課題の提示にとどまらず、そこで起こる葛藤の明確化とそれに対する対処という、より具体的な実践的目標の提起に至りました。


キューブラー=ロスは『死とその過程』の後、死後生を肯定する立場に急速に「回心」し、心理学的死生観の枠から逸脱してしまいます。エリクソンは、死を前にした老人は「統合対絶望」という葛藤を経験するとしました。かつて高齢者には、長寿に恵まれた少数の「長老」の伝統的な義務として、生きた経験に裏づけられた、生々しい利害関心を超越している英知を、その存在そのものによって伝達するという課題がありましたが、今日の高齢化する社会においては、大衆とした年配者にとって代わられました。問題は、大量の老人たちが、後続する世代との生きた関わりを失い、持続的な停滞感に悩んでいるということであり、それに対してエリクソンは「統合」を共同体に広げる可能性、そして必要性を示唆します。現代人は最終的には死という壁に直面せざるを得ず、治癒や長生への期待と断念による落胆とのギャップが、かつてないほど著しいものになっています。


エリクソンは、西欧の心理学は人間の全生涯を、死によって突然中断される「成熟への一方通行」としてしかとらえてこなかったと批判し、それに対して、ライフサイクルを文字通り循環としてとらえるべきだと主張しています。死を前にした葛藤や退行は統合を脅かし、絶望や嫌悪を引き起こしますが、統合対絶望の危機は、結局のところ解消されることがなく、それに耐え、バランスをとり続けるしかないと考えられます。


同じような状況を、ユング派のJ・ヒルマンはよりラディカルに論じています。西洋心理学に見られる「成長」や「成熟」としての老いという観念を否定した上で、コンプレクスの自己における統合という観念を念頭に置きながら、老人とは統合された人格を持っているのではなく、むしろ混沌に近い存在だとしています。ユング多神教的心理学を打ちたてようとするヒルマンによれば、われわれの心は統一的なものではなく、複数の独立したキャラクターによって構成されるものであり、死を前にして葛藤が際立つというよりは、最初から自己のなかに分裂した状態で並び立っていたキャラクターが、歳をとるにつれて、強くなるのだと解釈できます。要は、「執着」から「手放すこと」へ、「今どう生きるか」から「これから何を残して逝くのか」へ移行するということです。


人間の心が集合的なものから出て、そこに帰っていくというイメージは、ユングフランクル、そしてエロス論を含めるならフロイトにも共通するものとされ、それをエリクソンヒルマでも確認できるのだと著者は述べています。ただし、ヒルマンに関しては、ユング的な心理学的死生観を共有している点については少し異質です。


ただ、著者は、何を発達とするかどうかは、その基準次第で変わりえるものだと念押ししています。死に向かう過程は発達の一環なのかどうかという学問的関心は、自分の人生が満足行くものであったかどうかと問う生活者の関心と平行線をたどります。キューブラー=ロスは「死、それは成長の最終段階」と断言した意味は、死はむしろ人間を成長させるということを伝えたかったからだとされ、これは心理学的死生観から商況的死生観に向かう過渡期にあったと考えられると著者を指摘し、これはユングフランクルが「死は人格の感性・成熟」と言明した地点と同じであると解釈しています。


キューブラー=ロスがいかにして心理学的死生観の臨界を越えたかについて考察が行われています。自伝『生命の輪』には、数多くの霊的体験や霊的探求が記載されています。キューブラー=ロスは、宗教的信仰が死の直視を妨げると考えているが、信仰が否認とは関係がなく、むしろ信仰は受容と両立している事例がいくつか挙げられています。さらには、信仰が否認に直接つながっていない事例もいくつかあります。結局、キューブラー=ロスは、ほとんどの人は、何らか信仰を持っているが、心の葛藤や恐怖を軽減できるほどではないと述べています。しかし、著者は信仰が死を否認しているか、それとも死の受容に寄与しているかは、判断が困難であると指摘しています。


何を信じているかは重要ではなく、どのように信じているかが重要であると著者は強調しています。キューブラー=ロスは、数多くの事例を経ることにより、死の現実性を直視する宗教的死生観なら問題はないという見解に傾いています。現代社会における死の否認の一番の問題点は、死にゆく者の孤独であり、キューブラー=ロスも自伝や講演などでは「良き死」について語るように変わっていきます。死の受容は、このような看取りと分かち合いの共同体があってはじめて容易なものとなることを示唆しているものと受けとめられます。このようにして、宗教的死生観は、死の否認どころか、死に共同で向きあうための受け皿として再評価されます。このような彼女の看取りと分かち合いのモチーフは、「シャンティ・ニラヤ(安らぎの住み処)」として再構築につながります。


ただし、著者は、安易にキューブラー=ロスが獲得した死生観を宗教的死生観と呼ぶのには違和感があると述べています。なぜなら、個人の内的な確信は、他人に押し付けられるような教義ではないからです。このような立場は、心理学的死生観の臨界点を超えつつも、宗教的死生観の一歩手前で踏みとどまっており、現代風にいうなら、「スピリチュアルな死生観」ということができると述べています。また、死生観を伝播することが運動として展開したとき、そこには必ず自己欺瞞に陥る危険性があることも危惧されています。


著者の結論は、キューブラー=ロスの死生観は、教義化することがなく、否認や欺瞞をあくまでも避けようとするようなスピリチュアルな死生観と解釈できる、というものです。希望と絶望の両極端を生きる人びとにとって、脱宗教的な外観をまとっている限りにおいて、魅力的なものであると考えられています。


堀江宗正(2006年)『心理学的死生観の臨界点―キューブラー=ロスをめぐって』参照
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/20548/1/da008002.pdf