朗読者 / ベルンハルト・シュリンク(2003年)

朗読者 (新潮文庫)


★人の心の中にある罪の意識を知るには、論理だけで十分足り得るでしょうか。怒りや苦しみ、嘆きという概念的な用語を使わずして、本質に触れさせてくれるのが、文学なのではと思います。その意味では、ノンフィクション(哲学や論評)よりも、フィクション(文学)は、はるかに雄弁だと思います。「知る」というより、「感じる」といったほうがいいのでしょうか。史実かどうかとか、論理的かどうかという次元の問題ではなく、登場人物の心理の次元の問題として読まれるものが、世の中にはたくさんあるように思います。


逃避というのは、逃げ去ることではなく、到着することでもある。法史学者としてぼくが取り組んだ過去の問題は、現代の問題と比べて決して遜色のない、アクチュアリティーのあるものだった。過去を対象とする場合はその中にある人生の問題をただ観察するだけで、現代を扱う場合のようにその問題に参加するわけではない、と部外者なら考えるかもしれないが、実際はそうではなかった。歴史を学ぶということは、過去と現在のあいだに橋を架け、両岸に目を配り、双方の問題に関わることなのだ。

と同時にぼくは、現在にとってあまり意味のない過去の問題に埋没することで、充足感も得ていた。啓蒙主義時代の法律や法案のことを研究していたとき、ぼくは初めてそうした充実感を覚えた。当時の法律は、世界はよき秩序のもとに構想されたものであり、よき秩序の中に入らなければならない、という信念んに基づいて作られていた。よき秩序の荘厳な番人としてこうした信念のもとでどのような条項が作られ、法律に加えられていったかを研究し、それらの法律が美の概念にかなうものであることを目指し、その美しさによって真実を証そうとしているのに気づいたぼくは長いあいだ、法律の歴史には進歩があるのだと信じていた。恐ろしい反動や退行はあったも、一方にはより美しく、真実で、合理的で、人間的なものへの発展があるはずだ、と。そんな確信が幻想に過ぎなかったことに気づいて以来、ぼくは法律の歴史について別のイメージを抱いている。法律にはある目的に向かって発展してはいくが、多種多様な揺さぶりや混乱、幻惑などを経てたどり着く先は、結局またもとの振り出し地点なのだ。そして、そこに戻ったと思うと、またあらためて出発しなくてはいけない。