Books: 超越と実存 『無常』をめぐる仏教史 / 南直哉

 

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

超越と実存 「無常」をめぐる仏教史

 

 

私にも自分なりの問題意識があって、それを共有することは、私の論理構築能力の低さ、プレゼン能力の低さのせいで、なかなかわかってもらえない、伝えきれないという葛藤を起こしながら、この歳になってしまいました。
 
その問題意識とは、「死とは何か」「私とは何か」ということです。それに一定の解答を与えてくれるのが、宗教だったり、哲学だったり、ウパニシャッドヴェーダだったり、導いてくださるのが、スワミジであるのかもしれません。その先に想定される、絶対者、超越的存在、神、宇宙、ブラフマンを、一括りに「超越者(超越的存在)」と呼ぶことにしましょう。
 
ただ、この私の身体と意識、あるいは私の同一性といった実存としての問題として考えるなら、宗教やヴェーダが示してくれる教えでは、なかなかしっくりきません。
 
シュリーマド・バーガヴァタムを翻訳するにつれ、ヴェーダンタの骨格のようなものも少しずつ見えてきました。
 
「超越的な主がSelfに根拠を与えてくれる。私たち人間がSelfだと思っているものは、主の幻力によって錯覚に陥っているのであり、真の自己とは、アートマンである。そのアートマンが、普遍的な主(ブラフマンと実は一致する(梵我一如)ものであることがわかるようになるのが、いわば解脱である」
 
ヴェーダンタやバガヴァッド・ギーターをよく理解している日本人は一定の数いるでしょうし、大学や研究機関に所属しなくとも、グルの元で伝統の中で、「正しく」学んでいる方もおられるのは知っています。サンスクリット語の読み書きや教示を行なっている方もおられますよね。
 
それはそれですばらしい奉仕だと思います。
 
ただ、私の問題意識からすれば、尊敬はできるけれど、友達にはなれそうにないし、魂が震えるようなことはないのですね。
 
サンスクリット語やヨガの講師の方とお話していて、言っておられることに違和感はないし、よく勉強しておられるなと感心します。でも、それ以上でもなく、それ以下でもないんです。
 
その一方で、森岡正博さんの「宗教なき時代を生きるために」や南直哉さんの「超越と実存」を読むと、ビシビシ痛いところを突かれて、胸をえぐられるような気持ちになります。
 
結局、私は、自身の問題意識とまだ向き合ってないのかと思うのです。今回は、ヴェーダンタという巨人を味方にして、なんか悟ったような気持ちになろうとしているのではないかと。本当は、何も解決していないのに、本質を棚上げにして、目隠しになっているのではないかと不安になるのです。
 
もちろん、答えのない個人の生の問題に陥っていては、社会人としては生きていけません。アルジュナのようなものでしょうか。ただ、アルジュナもクリシュナに自己の存在の根拠を与えてもらったからこそ、戦う決心がついたのでしょう。アルジュナは、「超越的存在」をみたのかもしれません。
 
一方で、仏教のゴータマ・ブッタについては、どうでしょうか?私の感覚からすれば、ゴータマ・ブッタのほうが、「実存」の問題に向かい合っていたように感じられます。ただ、社会人としては、尊敬されるかはわかりません。 
 
著者南直哉さんはこのように書き記して、締めくくっています。
バブル経済崩壊以後の人々が、「自己」を制作する作法として、伝統的教団の教義と実践に期待しないのは無理もない。それは「剥き出しの実存」には既に通用しなくなったのである。
おそらく、今後求められているのは、「寺と家」の関係に基づく仏教ではなく、「僧侶と個人(信者)」としてお互いに関わる仏教である。

 

宗教なき時代を生きるために

宗教なき時代を生きるために

 

  

バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)

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