Study: なんじゃい ひょうたんや〜旧東山村-灘のけんか祭り

令和元年の松原八幡神社の練り番(年番)は、東山地区(旧東山村)でした。練り番の氏子地区には、いくつかの奉納の任務があるようですが、例えば、祭りの1ヶ月前から昨年の練りで壊れた3基の神輿を修理して奉納することや、宵宮・本宮では神輿三基を激しくぶつける合う「神輿合わせ」などがあります。神輿をぶつければぶつけるほど、祈りが届き、神様が願いを聞いてくださるということから、あのように激しくやるようになったそうです。起源にはいくつか説があるようで、舟の貝殻を落とすためにぶつけあったことを模倣しているとも言われます。

 

その神輿合わせの際に、歌われる「石搗(いしづき)祝い歌」にこんな一節があります。


汝(なんじゃ)納(のう)俵担(ひょうたん)ヤ サア 越頭(えっと)栄(えい)

 

東山村は、この言葉の裏に、


何(なん)じゃいの 瓢箪や サーエットエー

 

と込めていると言われます。

 

瓢箪とは、羽柴秀吉の馬印のことで、当時中国地方攻略のためにまずは播磨を平定にとりかかりました。いよいよ秀吉と毛利軍・別所長治の戦の際になると、松原八幡神社は双方から援軍を依頼されましたが、選択できませんでした。これに業を煮やした別所長治勢は、神社を取り囲んで一斉に火を放ちました。さらに、勝利した秀吉は加勢をしなかったことを怒り、神社を芝原(現:姫路市豊沢)に移すよう命じましたが、松原八幡神社を敬う官兵衛は存続を嘆願し、存続を許されました。しかし、千石あった社領は六十石に減らされました。

このとき白浜の地と神社の由緒を説いて秀吉を説得したのが名軍師と謳われた黒田官兵衛孝高だといわれています。羽柴秀吉公の狙いは強大になった寺社勢力を削ぐことにあったのかもしれませんが、古来からの伝統的な流れを断ち切ることで人心を失う愚を犯させないようにとの思いがあったのでしょう。

かつて羽柴秀吉社領を減らされ、神社内での生活が困難になった松原八幡神社の神役人の多くはこの東山に移り、百姓をしながら祭儀の際には役目を果たしたそうです。

 

すなわち、この唄に東山氏子は、
「秀吉がどれほどのものか」「氏子の魂までは売らへんぞ」

といった心意気を歌い継いでいるということです。

 

ちなみに、東山の屋台の棟の前後の屋台紋は、千成り瓢箪です。以前は菊紋でしたが、皇室の御稜威を憚り改めたそうです。秀吉の馬印に因み12の瓢箪を菊花弁に見立て、何とか菊紋を残したいと云う地区神役人の知恵が垣間見られます。また、そこには、その昔彼等を追放した憎き秀吉を崇め奉るかの様に見せ掛けて、その実それを隠れ蓑に菊紋を偲ぶと云う反骨精神も併せ見る事が出来ます。

 

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