Study: 幻の中世都市〜英賀神社から当時を偲ぶ

播磨地方は、中世より天候や海の幸山の幸に恵まれ、交通の要所として発展してきた地域であるので、平和ボケしているのかと思いきや、逆でした。戦国時代には、大坂の羽柴方と中国の毛利方の板挟みにあい、松原八幡神社(灘のけんか祭りで有名)が焼き払われたり、社領を減らされたり。また下記のように播磨の中心都市だった英賀が一夜にして灰と化した「英賀攻め」を知ると、常に敵からの侵略に晒されていた地域とも言えます。

このような歴史を知ると、イタリア南部にあるシチリア島を思い出します。シチリアの住民も様々な勢力によって支配されてきた経緯があるので、ファミリーの絆が強く、よそ者への警戒心も強いようです。そのメンタリティが下地となり、映画「ゴッドファーザー」で描かれるようなファミリー・ビジネスがアメリカで発展されたとも言われます。

もちろん系統は違いますが、灘のけんか祭りをみていると、氏子の一致団結力が強く、上から圧力で動くのではなく、練り子主体の祭礼を行なっているのは誰の目にも明らかです。その理由が、播磨地方の歴史から少しわかったような気がします。

古代より水運の要所だった英賀は室町時代に赤松氏が城を設けたことで発展を遂げました。城主・赤松祐尚(すけなお)の死後、嘉吉元(1441)年には三木氏が移ってきて城を拡充し、的形から室津を治める西播磨の拠点となりました。永正12(1515)年には京都・本願寺の実円院主が英賀本徳寺を建立。三木氏の保護もあって、一向宗最西端の布教拠点として、寺内町の性格ももつようになりました。播磨最大の都市とされたのもこの頃で、宗教関係者だけでなく、播磨灘や夢前川の水運を利用した交易の拠点となったために商工業者も多く集まり、人口は6~7千人を数えたと言われています。

一時は 「播磨最大の都市」といわれ、戦に翻弄された都市でもあります。
1576年『英賀合戦』。播磨進出を狙う毛利と官兵衛はこの地で戦い、見事な戦術により、毛利軍を撃退しました。英賀に悲劇が起こったのは、1580年。中国進出を開始した秀吉軍の『英賀攻め』により、城のみならず町全体が火の海となり、一夜にしてすべてが焼失したといわれています。戦火により数多くのものが失われましたが、「英賀神社」には、失われた巨城・英賀城の土塁(どるい)が今も残されています。

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