Books: Do Androids Dream of Electric Sheep? / Philip K. Dick (1968)

 

邦題は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』。映画『ブレードランナー』の原作です。原作の小説を読むと映画とはまったく違った観点を持ちました。アンドロイド(映画では、レプリカントと呼ばれる)と、生身の人間の対比です。主人公リック・デカード(Rick Deckard)の妻であり、うつ病で何事にも無関心なイーラン(Iran Deckard)とアンドロイドでありリックの不倫相手、感情豊かなレイチェル・ローゼン(Rachael Rosen)、リックの同僚で放射能被曝のため脳に障害を持つジョン・イシドル(John Isidore)とアンドロイドのリーダー的存在で聡明なロイ・ベイティ(Roy Baty)。

この小説では、生身の人間は、自分が人間であることにアイデンティティを持ち、アンドロイドに対して優越感を持ちながらも、内心は知性の衰えや、感情移入が希薄になっていくことに恐怖を感じています。一方で、火星の植民地化の強制労働から逃れて地球の人間に紛れ込んでいるアンドロイドたちは、人間になることに憧れ、実際には知性と感情移入の面において人間以上に人間らしいと感じるほどに描写されています。

ここで哲学的な問題が生じます。「人間とアンドロイドの線引きはどこですればいいのか」という疑問です。ここで描かれる核戦争後の地球には、動植物種の大部分が絶滅し、人間たちは、機械仕掛けの動物や昆虫(電気動物、模倣動物)を飼育することで情緒を保ち人間らしさが失われないように努力しています。さらには、マーサーというカリスマ的な教祖がおり、メディアを通じて世界中の信者に教えを説いています。共感する力や感情移入の能力こそが、人間たるゆえんであるという教義に基づいた講和を行います。ただし、小説を読み進めるにしたがって、マーサーの実在も怪しくなっていきます。世界中の人々がメディアに踊らされ、実在しない人物の虚像を作り上げているだけなのではと疑問になってきます。特に冷静沈着なリックは懐疑的です。

実際の妻とうまくいっていない、賞金のためだけにアンドロイドを処分していく、主人公リック・デカードは、周りの人々とは違い、機械仕掛けの動物や昆虫には、初めの頃は興味を示さず、妻にも冷たいのです。しかし、どういうわけか、アンドロイドのレイチェル・ローゼンには恋心を抱いてしまい、肉体関係まで結んでしまします。ところが、この関係にも転機が生じます。リックはアンドロイド狩りで手に入れた賞金で、本物の家畜ヤギを買います。妻にも自慢しようと家で飼い始めるのですが、それをレイチェルに殺されてしまいます。アンドロイドだけれども感情豊かなレイチェルは、リックに嫉妬したのでしょう。自分よりも本物のヤギのほうがいいのかと。

リックは、ショックを受けたのか、一人旅に出てしまい、荒野を彷徨い。宗教家マーサーのごとく自分に試練を与え、苦行を自ら課すような放浪の旅です。彷徨っている時に、ヒキガエル(Toad)を見つけて家に持って帰ります。発見当初は本物だと思っていたリックでしたが、妻の目は鋭く、ヒキガエルが電気動物だと見破ります。ところが、妻のイーランは、夫のためと思い、優しく育てます。リックも、「電気動物にも生命はある」とまで言います。

青い鳥症候群」のごとく、遠くかなたの実在するかわからない概念/虚像を探し求めて始まった物語が、実は身近に愛するべき存在がいることに気がつかされることで締め括られます。自分が自分であるために、アンドロイド狩りをしていたリックは、もしかすれば、誰よりも人間と機械の線引きが甘かったのかもしれません。しかし、リックの魂の旅は、すべてが無駄だったのでしょうか。宗教家マーサーとの出会い、愛人レイチェルとの出会い、イシドルとの会話、他、知性や感情豊かなアンドロイドたちとの出会いと処分(殺戮)、放浪の旅、こういった試練が与えられたからこそ、彼はその度に傷つき、挫折し、自分の姿に気がつきました。その間に、彼は彼なりに感情が豊かになり、自身のアイデンティティが依って立つはずだった人間/電気動物の線引きの曖昧さに気がついたのかもしれません。自分のスタンスや視点がかわることで、周りに存在する人間や動物に共感するようになったのではないでしょうか。