Books:  ケルトを巡る旅ー神話と伝説の地 / 河合隼雄(2021)

 

キリスト教現代社会ーアメリカーグローバルー科学技術ー父性原理の一連の概念と、ケルトー中世・中世以前ーアイルランド(ヨーロッパの辺境)ーローカル(民間伝承)ー自然ー母性原理を対立させながら、わかりやすく解説がなされています。

ケルト文明やアメリカ先住民の文化には、自然を崇拝し、神・人間・自然の境界線があいまいであり、その死生観は円環的であると言われます。日本の神道もまたそれらに近いものであると。それに対して、キリスト教では、神という自然の外の存在が自然を作り、神・人間・自然は歴然と区別されます。

ケルト人社会における祭司を狭義ではドルイドと呼ぶそうですが、現代ではイギリスやアイルランドを中心に、自然との共生を求める人々によって、土着のケルトの思想や実践を復活させようという動きがあるそうです(本書執筆2004年当時)。現代のドルイドとは、広い意味で、キリスト教が広まる以前、ケルト人たちが信仰した自然崇拝の思想とその実践者のことを指します。河合氏が現地で彼らの活動をみたり、インタビューする限りでは、ドルイド信者の間では、儀式に「ルールがない」ことが特徴として挙げられます。厳密なルールに則って行われる宗教儀式とは異なっており、しいていうなら、「自然を大切にしよう」という気持ちで「儀式をクリエイトしている」と。そもそも宗教の儀式とは、絶対者に祈り、その存在を身近に感じる行為ですが、その反面、儀式というのは形骸化しやすく、なかなか全身全霊で行為できる人は少ないのかもしれません。現代社会では、河合氏は儀式と仕事と遊びを厳密に分けることは難しくなってきていると分析しています。これら3要素がグルグル回っており、仕事を通じて絶対者に至るような人もいるし、遊びからそうなる人もありえるといいます。ただ、儀式においては、人間の心を絶対者に届けることが非常に難しくなっているのも事実ですが、芸術と呼ばれるものは、その可能性を大いに持っているのかもしれません。

自然科学的な知恵の強みは、普遍性を持っている点にありますが、逆に言えば、普遍性が通用しない世界もあるわけで、「私」という人間がこの世に生きていること、「私」に起る出来事はもちろん自然科学的に説明はできるものの、そうではない説明も人間は案外信じてしまったり、科学的な説明だけではすっきりしない場合もあります。その普遍性と特殊性(個別性)の狭間でバランスをとりながら人々が生きているのが現代社会で、バランスの取り方が悪いと「アンチ自然科学」になってしまうわけで、「補・自然科学」と河合氏が呼ぶように、自然科学の所産として我々が知っていることと、そうでないものによって与えられた示唆や助言との差をよく心得つつ、環境や時代に対応していく必要があるのかもしれません。

本書を読んでいると、日本人で源氏物語を好きな人がケルトに親しみを覚えたりするのは、案外、自然のなりゆきなのかなと思いました。ケルト文学と平安文学の文体は近いものがあるそうです。

キリスト教が土着的なものから切り離されて、世界中に伝播したというより、土着的なものと切り離された部分が一般化されて伝播したのかもしれません。しかし、そもそもは中東のエジプト・イスラエルの砂漠の地域で生まれた局所的な宗教である一面もあるので、世界各地に広まり浸透するにつれ、地域固有性であったり、自然を慈しむ精神性にも再度スポットが当てられるはずです。

ヒンドゥ教の文化から生まれた(ハタ)ヨガは、世界中でエクセサイズ的にやっている人いますが、レッスンなど受けていると、呼吸を整え、感覚を研ぎ澄まし、思考の強まりを制御し、自然と一体であることを再認識するになることが教えられます。ヨガも宗教という枠組みで捉えるよりも、自然と一体化していることを再認識することを目標に、儀式と仕事と遊びの3要素が円環的にグルグルめぐっているような感じがします。創造と維持と破壊が、直線的に生じるというより、順序が無作為に起こり、永遠と続いていくように思います。