Books: 吾輩、漱石はビジネスマンである / 武木田義祐(2021)

 

漱石はビジネスマンである」この命題を見て、私は内心、ハードルの高さを感じました。なぜなら、私自身が、ビジネスマンひいては社会人に対して、コンプレックス(劣等感)を抱いているからです。

しかし、世に名前が知られ、100年先も語り継がれるような偉人は、文学者、科学者、発明家、宗教家、人権活動家、政治家その生業を問わず、ビジネスセンスに長けていることは、誰しもが納得するところでしょう。

本書の前半では、漱石がなぜビジネスマンであると考えるに至ったのかを分析しています。ここで言われるビジネスマンは、お金儲けが上手な人という意味だけではありません。金銭のバランス感覚や経済観念に長けている人であるだけではなく、イノベーションを起こす人であり、コミュニケーション能力に長ける人であり、抽象化能力に長ける人であり、エンターテイメント能力に長ける人であり、豊かな付加価値の多い作品(製品)を提供できる人であり、ウィン・ウィンの関係といった相互利益につながる関係性を構築するためのビジネス戦略に長けた人であることを条件として挙げています。

夏目漱石はこれらのビジネスマンとしての必須条件を兼ね備えた条件を人物であり、漱石の生涯、そしてその作品や講演の内容は、現代のビジネスマンがストレスの多い社会を生き抜き、課題を克服する際に、多くの示唆を与えてくれる学びの源泉だと述べられています。

本書の後半部では、漱石の16作品についてビジネスの観点から分析しています。面白いのが、16作品目に「文学論の創造性」を挙げているところです。著者武木田氏は、理系大学院のご出身で大手企業の研究開発に長年携わり、ヘッドハンティングで有名企業へも転職した経験のある方ですから、その世界の先駆者であり、酸いも甘いも知る人物です。文学は感性や芸術性から語られることが多いように思うのですが、今回、理系脳やイノベーション(創造)脳を持つ著者により分析される漱石の作品は、新たな面白い読み方が提案され、新鮮です。

「文学論の創造性」は、文学者や文芸評論家が比較的取り上げない作品で、その理由は漱石が文学を科学論に当てはめようと試みたからではないかと言われています。「漱石は文学者であり、科学者でない」という暗黙の了解がこれまでの日本の文壇にはあったのかもしれません。しかし、漱石が近代科学に興味を持っていたと考えるのは不自然なことではなく、実際に、寺田寅彦から薫陶を得ており、池田菊苗との科学談義もなされておりました。アインシュタイン湯川秀樹ポアンカレといった近代科学の研究成果にも興味を持っていたと考えるほうが、自然です。ウィリアム・ジェームズの哲学論から影響受けているのも有名な話です。

武木田氏は「文学論の創造性」をこのように解釈します。社会と個人は常に拮抗しており、その緊迫した中で物語が生成されていく。科学技術が新しい枠組みをイノベート(創造)すれば、社会の枠組みが一変します(パラダイムシフト)。しかし、また新たに、枠組みと個人の間での拮抗が生まれ、新しい物語が生成される。例えば、OS(プログラミング)によって、パーソナルコンピューターが生み出され、社会は一変しました。やがて情報化社会となり、個人はスマホを手にするようになりました。しかし、複合的な格差社会をもたらし、生きづらい人間関係も引き起こしています。漱石は、社会の枠組みを抽象化・概念化して捉えており、個人という場において具現化が起こる。その具現化にはある程度の個体差(揺らぎ)が常にともなっており、その揺らぎを汲み取ることが文学の醍醐味でもあり、文学作品が持続して生産される理由でもあると解釈していたのではないかと、武木田氏は指摘します。そうであるなら、社会と個人が存在する限り、何千年も前から、そしてこれから数百年先まで、文学という製品を生み出していくことは可能であると言えます。

他にも、武木田氏の解釈の独自性はいくつもありますが、例えば、「こころ」の解釈において、多くの文芸評論家は、乃木希典の殉死を先生の自殺のきっけかと見なしているのに対して、疑問を呈しているところです。不条理・理不尽な社会の複雑性を知っている漱石が、乃木の殉死ひいては明治天皇崩御を自殺のきっかけにしたとは、考えにくいと述べています。それなら、武木田氏はどう解釈しているのかと気になりますが、ここは含みを持たせたままにしてあります。「こころ」の先生の死、乃木氏の殉死を崇高な霊的な行為として捉え、美談、美徳の一例として解釈するほうが、人々の心理としては気持ちは和らぐのですが、冷徹なマインドを持った漱石が読者にそう望んでいたでしょうか。むしろ、問題提起だったのではないかと思います。お国のため大義名分のもと、どれだけ多くの日本国民が戦争の犠牲になったことでしょうか。会社ではどうでしょうか。過労死、パワハラなど全体の利益を優先したり、上下関係の下敷きになり、犠牲になった個人は少ないと言えるでしょうか。日本国への忠誠心と、会社組織への忠誠心について考えさせられる指摘です。

リラックスした時にいいアイディアが生まれるというくだりには、内心ほっとしました。漱石は作家となってからは日課として午前中に小説の筆記をしたり、小説の課題を構想したり、研究メモを記したり集中的にすごし、午後は散歩に出かけ、緊張をほぐしていたそうです。以前にこのブログでも近代の偉人たちが森林を散策することで心の滋養を行っていたことを紹介した本「ジョン・レノンが愛した森 夏目漱石が癒された森/上原 巌(2010年)」を取り上げたことがあります。

例えば、村上春樹さんもそうですが、ルーチンをしっかり守るというのは創造的な仕事をする人には重要なことかもしれません。長い期間活躍するロック・ミュージシャンも、実際は、ロックな生活はしておらず、健康第一の規則正しい生活をしていると聞きますし。漱石が、森林浴を好んでいたことや座禅をしていたことも創造性にプラスになっていたはずです。

漱石は、晩年は「則天去私」の思想を打ち出し、若い頃の「自己本位」とは正反対とも言える思想に至りました。「門」において仏教心を顧みており、「散心から定心」と、マインドを一点に定める集中力の重要性を熟知していたと考えられています。「則天去私」は、自分の輪郭(エゴや身体の枠組み)への執着から離れ、「自然と融合する最終境地に行きたい」と悟ったのかもしれません。梵我一如の思想に通じる考え方です。

夏目漱石は結局のところやはり天才であるのですが、ただの天才ではなくビジネスマンとしても群を抜いた才能の持ち主であったと言えます。全てを兼ね備えた100年にひとりの天才です。でもその作品を読むと、とても身近な人であるように感じるのです。「坊ちゃん」では、自分を赤シャツ(とても嫌なキャラです)に投影させたとも言われます。自己本位と言いながらも、自分への冷徹な視線は失わなかったところも、SNSなど個人の露出が容易になった現代の社会で生きていくヒントが隠されているかも知れません。