Books: 街とその不確かな壁 / 村上春樹(2023)

 

村上春樹の長編小説の新刊。実は、40年前に文学界に発表した中編小説をモチーフに、書き直したものです。少なからず、このパンデミックの2、3年が作者の心理に影響したそうです。

そのためか、村上春樹小説の中で一番、解放感のない小説です。第一印象としては、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を思わせる世界観です。村上小説を特徴づける、あの特有の無味乾燥な性的な描写も、天気の良い日の昼間に海辺で寝そべってビールを飲みながらジャズを聴くシーンもないです。

珍しくこの小説には、村上春樹自らによる「あとがき」があり、そこにはこう書かれています。

一人の作家が一生のうちに真摯に語ることができる物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られた数のモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に書き換えていくだけなのだ。

要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの真髄ではあるまいか。

この言葉の意図を深読みするなら、この小説に描かれなかったシーンというのは、真髄ではないのかもしれません。性的な描写と開放的な描写が村上春樹小説のユニークさであり、それが世間一般では、好き嫌いに繋がっているようにも思えるのですが、実はそれは「看板」として扱っていただけなのかもしれません。村上春樹小説の本質には、まさに、空井戸を降りていくか、壁の中の街に入っていくか、壁をすり抜けて異界に入り込むかというような、ファンタジックな世界が広がっており、それは肉体的な快楽の享受とは真逆の世界です。

今までのどの小説でも、異界との間の行き来が核となってきたのは事実で、そこに入るきっかけが、小説ごとに違っているだけであり、何かの偶然の重なりの結果として、主人公は巻き込まれてきました。

村上春樹の小説を読んで何か教訓が得られるのか?と考えた場合、どんな人でも、重要だと思われる何かと接触するためには、やはり覚悟を決めて「そこに降りて」行かなかればならないことでしょうか。その様子が第三者から滑稽だと思われても、やはり直感に従って遂行するしかない。教訓があるとしたら、そのあたりでしょうか。結果は、わかりません。物事を成し遂げた後でも、第三者からすれば、何も変化は起こっていないように思われるかもしれませんが、自分の中での変化はあるはずです。

 

本小説には旧約聖書からの引用があります。

“人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない。”詩篇‬ ‭144‬:‭4‬ 

主人公が就任した僻地の図書館の元館長、子易さんは、人間なんてものは吐く息のように儚い存在であり、その人間が生きる日々の営みなど、移ろう影法師のごときものに過ぎんのです(p. 303)。と説明しています。このくだりは、小説の全体的な雰囲気を象徴するかのようです。我々が普段は、深く見つめ直すことの少ない現実の生活とそれぞれの生ですが、実はそれは儚く、脆いものだというのいう「気づき」を与えてきっかけがあるのが、村上小説だと思います。

図書館に通う謎の少年は、「イエローサブマリン」と呼ばれていますが、その少年については、図書館の職員、添田さんは、「ご存じのように、人並みでない優れた感覚と能力を具えた子ですが、年齢的にはまだ成長期にありますし、そのような能力の発揮を支える身体の力量は、あるいは心の防御能力は、おそらく十分と言えないはずです。あの子を見ていて、そういうところが心配でならないのです。(p. 423)」と理解を示し、主人公は、「彼をうまくケアし、導いてあげる人が必要になる(p. 423)」と回答します。

感受性の強く、第六感でもあるのかと思えるような、少年少女が必ず登場する村上小説。他の小説においても、その少年少女は、両親の不和や家庭の問題から、孤独を感じ、愛情に飢えています。家庭や社会から、疎まれたり、自ら殻に閉じこもったりしてしまっているのですが、なぜか主人公だけには、心を開くことが多く、その少年少女との会話が物語の展開のきっかけになり、彼ら彼女らは主人公や読者に内面的な気づきを与えるキーパーソンとなります。思春期の少年少女の心の難しさを理解するという意味でも、興味深い登場人物たちですし、読者が自分の過去の姿を客観視できる写鏡でもあります。