三四郎 / 夏目漱石

三四郎 (岩波文庫)


 小説の主人公=作者自身という図式が必ずしもあるわけではないと気づかされたのが、夏目漱石の「坊ちゃん」でした。「三四郎」においては、さらに漱石が強い自己批判性を備えた傍観者であることがわかります。


 主人公の小川三四郎は田舎から上京してきた青年であり、何事にも踏み切れない優柔不断さを持った、ごく普通の学生として描かれています。例えば、ドストエフスキーの小説「白痴」のムイシュキン青年も純粋無垢がゆえに色んな人に翻弄される様子が描かれていますが、タッチとしては、主人公に強く焦点が絞られており、その個性の輪郭がくっきりと描かれています。しかし、「三四郎」の場合では、むしろ、三四郎主人公自身はほとんどぼやけた感じであり、他人との関係の上で、その個性が浮き彫りにされることはあっても、何か特別な信条や政治的意見を持っているようには見えません。平凡な性格として描かれる主人公に対して、他の登場人物は、当時の日本人のいくつかの典型として色濃く描かれており、当時の日本の様子がこと細かく風刺されています。


 さまざまな人と出会い、三四郎青年は自分は三つの世界に囲まれていると頭を整理します。一つ目は、母のいる、故郷熊本。二つ目は、野々宮や広田先生のいる学問の世界。三つ目は、都会の女性・美禰子(みねこ)のいる華美溢れる世界です。


 学問の世界の人として、物理学者の野々宮先生と英語教師の広田先生が出てきます。この二人は、自分の学問の成果のために上流と分離したストイックな人たちです。ただ、野々宮先生と広田先生は同じように学問の人ではあるのですが、対照的です。この小説の中では、漱石は広田先生に投影されているように思えます。例えば、


 「度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。其だ不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それが形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はさういう云ふ風に暮して行くものと思えば差支ない。そうして行くうちに進歩する」


三四郎に説明し、この両主義の平衡している国の例としてイギリスの名前をあげます。日本においては、市民階級が軽薄であるがゆえに、自我(個人)と大義名分(全体)の間で極端な揺れ動きが起こりうると指摘されているようにも読み取れます。


 三四郎は、美禰子に魅力を感じ、彼女によって翻弄され、結局は失恋に終わります。美禰子は、今風の言葉できなら、セレブで悪女的な女性です。三四郎と美禰子の距離感の変化がこの物語の醍醐味の一つでしょう。 美禰子が三四郎にささやいた、ストレイ・シープ(迷える子羊)は何を意味しているんでしょうか。


 三四郎、与次郎、広田先生、野々宮先生も、目標がはっきりせず、なにがしか実社会からはずれたところで動いていること、自我(個人)か大義名分(全体)かといった問題、また、ところどころで描かれる都会では死が隣り合わせであること、後半部分で美禰子からお金を借りるや借りないやで生じる金銭に絡んだ見栄やプライドの問題など、こういったどうにもならない問題がどんどん生まれてきているように思えます。もうすでにこの時代に漱石は、近代以降の日本の将来の様子を見抜いていたとも考えられます。そして、この時代からある意味では現代の日本は何も変わっていないか、もしくはもっとひどくなっているかのどちらかに思われます。ストレイ・シープ(迷える子羊)は、現代の人間を暗喩した言葉なのかもしれません。


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