Study: 村上春樹の創作過程についての覚書 (3) デレク・ハートフィールドを巡る在と不在のテーマ / 山 愛美

村上の物語には,失踪,死,などさまざまな種類の喪失が多く描かれて いる。上記の「文學界」のインタビュー(『「物語」のための冒険」』)で,聞き手の文芸評論家の川本三郎に,「風の歌を聴け」では多くの人が亡くなっているという指摘を受けて,「(僕は)失われたものに対する共感=シンパシーは非常に強い。...この現実の状況というのは,僕にとっては仮のものなんです。絶対的な状況じゃない。今の状況とネガとポジの関係になった逆の状況が存在してもおかしくはないということです」(村上,1985)と述べている。また,「僕の物の見方とか捉え方の基本にはいつも〈在〉と〈不在〉を対照させていくようなところがあって,それが並列的に並んだパラレル・ワールドにむすびついていく傾向がある...つまり〈存在〉の物語と同時に〈不在〉の物語が進行して行く...」(村上,1985)と述べている ように,村上にとって,「在・不在」は中核的なテーマの一つである。

 

教育においても同様のことが言えるだろう。教育者と名の付く人の中には,自分が知っていることの枠から,学ぶ者がはみ出ることを嫌う人たちがいる。そうした人たちは,上述の新聞記者よろしく,学ぶ者の考えを 「矛盾している」などと言ってその価値を認めず,自分にとって既知の安全な枠の中に押し込めるのがオチであろう。それを教育と呼ぶならば,そうした教育からは決して新しいものは生まれない,と筆者は思う。

 

ただし,筆者は,村上にしても,Jung にしても,幼少期にこのような 体験があったから,今日の村上春樹の作品が生まれたとか, Jung は無意識の研究に生涯費やした,と考えているのではない,ということを強調しておきたい。死の体験や,身近に死の関する体験があっても,それが, その人の心の中に組み込まれないこともあれば─深い無意識レベルでは, 本人も気付かぬところに組み込まれていることもあるが─,生涯にわたって深く存在し続けることもある。要は,本人の中でその出来事がどのように意味付けられ─たとえそれが本人に意識されていなくても─,持ち続けられているかということが重要なのである。

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