自然保護を問いなおす−環境倫理とネットワーク/鬼頭秀一(2004年)



自然保護を問いなおす―環境倫理とネットワーク (ちくま新書)


★目次
序章 環境倫理思想のいま
第1章 環境倫理思想の系譜
第2章 新しい環境倫理をもとめて
第3章 白神山地の保護問題をめぐって
終章 わたしたちはいかにして「つながる」ことができるのか


★鬼頭秀一氏は、「社会的リンク論」というものを提起しています。すなわち、人間と自然の間の、経済的・社会的リンクと、文化的・宗教的リンクの二つのリンクをシステム論的に構成しています。人間と自然とのかかわりの全体性と部分性を分析し、全体的なあり方を求める可能性が追求されています。従来の人間と自然の二分論ではなく、両者の関係性をみています。また、狭義の哲学の議論にはまり込むのではなく、民俗学文化人類学などの地域研究(フィールドワーク)の成果に基づいた学際的な探求の可能性も主張されています。


自然保護の根拠としての自然の価値について考えた場合、まず人間にとっての利用可能性という「使用価値」が挙げられます。それに対して、「内在的価値」、いわゆる審美的価値があり、さらには、「原生自然=ウィルダネス」という価値もあります。後二つは、人間の利用を離れて、自然それ自体に「本質的価値」があるはずだという主張からくるものです。したがって、「保全」の考えは「使用価値」を、「保存」は「本質的価値」を根拠にしています。


しかし、西洋社会での「自然」の概念と、非西洋社会、とくに第三世界で抱かれる「自然」の概念は、異なってくるのではないかという指摘があります。したがって、西洋(特にアメリカ)で発展してきた環境倫理を、そのまま非西洋社会に演繹することは根本的な問題の解決にならない可能性が高いです。そこで、各地域の歴史的文脈、文化的文脈を認識し、人間と自然との深いかかわりあいのあり方を主軸にした環境倫理学が必要ではないかと述べられています。


日本においても「自然」といった場合、手付かずの原生自然というものはほとんどなく、近代以前の先祖たちは上手に自然と関わりあいながら、仕事や遊びなどの文化を育んできたことも事実です。その中で「生業」という営みが生じました。狩猟採集、(遊牧)、農業、漁業などがそれに当てはまります。これら生業の営みは、継続的に安定的に、ある意味で持続可能な形で近代までは続いてきました。


著者は、従来の環境倫理思想が、自然のことを一番よく知っているはずの生業に従事する人たちの営みと、現代の産業社会における自然からの収奪の営みとを、きちんとわけて考えられない背景には、やはり自然と人間の二項対立的な図式があるのではないかと指摘しています。


人間と自然とのかかわりの関係性を表す概念として、「生身」と「切り身」という二つの概念が導入されています。「生身」というのは、人間が社会的・経済的リンクと文化的・宗教的リンクのネットワークの中で、総体としての自然とかかわりつつ、その両者が不可分な人間−自然系の中で、生業を営み、生活を行っている一種の理念型の状態を表します。一言でいうと、「自然」としっかり「つながっている」状態のこと。一方で、「切り身」は、自然とは部分的な関係しかなくなってしまっている状態。すなわち、「切れている」状態のことです。


具体例として、「食」の分野で、スーパーで売られる切り身の肉を購入することは、「切れた」状態であることになります。なぜなら、その動物がいつどこで屠殺、解体され、どのような経路を辿って、スーパーにやってきたかという社会的・経済的リンクがわからなくなり、また、生きていたものを殺し、食べているという自覚が少なく、文化的・宗教的なリンクも薄れているからです。現代の日本は、特に都会社会は、このように「切れた」状態のものが多く、人も「切れた」ものとなりがちです。


この議論から考えられることは、ただ自然に経済的価値を見出し、搾取することが悪であるとか、逆に近代技術を投げ捨てて、昔ながらの生業一辺倒になるのが善であるといった結論はでてきません。主張したいことは、新しい技術の環境への適合性について考えるのが第一だということになるでしょう。新技術が、その地域の環境に適合するか、つまり持続可能な形で定着するかは、その技術が他の要素との間にあるさまざまなリンク、とくに、社会的・経済的リンクとの関係が重要になってきます。


一方で、人間非中心主義的な観点からの保護の議論にも、「切り身」のリンクが存在していると言われます。例えば、森林に対して、美的なもの、あるいは「原生自然=ウィルダネス」の価値を付与する場合です。それは、先進工業国の人たちにとっての、特定の文化的価値を持ったリンク、すなわち、「切り身」の文化的・宗教的リンクだと指摘されています。


近代の科学技術は、それまでの伝統技術に比べて、自然に介入する程度が圧倒的に大きくなっただけでなく、普遍的な傾向が高まった分だけ、地域社会における、文化・宗教的なかかわりやそれによる規制が希薄になっていると分析されています。


要するに、環境問題の解決には、さまざまなリンクのネットワークをどううまく「つなげて」いくかということこそが重要な鍵になるのではないだろうかということです。


和辻哲郎が『風土』で示唆したように、特定の地域に住む人にとっての自然の価値というものは、気候、気象、地質、地味、地形、景観といった風土性に現れるものなのかもしれません。著者の環境思想と和辻風土論とは相同性が見受けられます。したがって、自然と人間の総体は、全体論的なネットワークであり、本来不可分なものとして捉えられます。


すなわち、社会的リンク論(自然−人間の総体ネットワーク論)に従えば、「自然」の価値とはなにか、と問うた場合、同時に「人間」のあり方を問うことになりえるし、逆に「人間」のあり方を問う場合にも、同時に「自然」との関わり方を問うていることにもなりえる、非常にアンビバレントなものであると言えるでしょう。自然とのかかわりの深い日本を含め非西洋社会での有効性が期待できる環境倫理思想でしょう。


最後に、この社会リンク論の先にあるものとして、このモデルは、現在でも、伝統的な生活を保持しようとしている様々な人たちの暮らし、とくに国際的には先住民の生活の文化を守っていくことの根拠になると述べられています。自然保護や環境保全を考えていく上では、環境教育としてステレオタイプな活動を行っていくよりも、自然とのかかわりにおける「伝承」に目を向けることの方が重要だと述べられています。次世代にかかわりのあり方を伝えるという世代間の問題です。


さらには、いわゆる「よそ者」の役割の重要性も強調されています。すなわち、都市部の「切れた」人たちが、田舎へ入り、客観的な眼でそこにある様々な伝統的なつながりを認識し、保護の問題へとつなげるように啓発活動を行うことに強い期待が持たれています。「切り身」化した人がいかにどれだけ「生身」化していけるかが、環境問題の解決にむけての実践的な第一歩であると言えるでしょう。