Books:  ハンス・ヨナスの哲学 / 戸谷洋志(2022)

 

ハンス・ヨナスの哲学、特に、世代間倫理に関するところは、10年くらい前にネイチャーおおさかの環境倫理談話会で何度か話題にしてきました。シンポジウムの際には、用語集の一部を分担執筆しました。

本書は、世代間倫理はもちろん、ヨナスの人生、テクノロジー論、生命論、人間論、責任論、未来への責任論、神学論について、わかりやすく解説しています。

伝統的な倫理学において、人間の行為は常に同じ時代の人間にだけ関わるものと想定され、行為の時間と空間は現在に限定されてきました。未来への責任は、原理的に、いま現存する人間で構成される民主主義と整合しません。同意を根拠にするにではなく、むしろその存在を根拠にして責任を基礎づけることを、ヨナスは考えました。ヨナスは当時の生物学に対抗して、「哲学的生命論」を提唱しました。生命について問い直すことは、同時に人間と自然の関係を問い直すことです。そこでは、生命とは有機体と精神を総合的に捉える必要があります。生命を現象学的に記述するために、「質料Stoff」と「形相Form」の概念を取り入れ、前者はある存在を構成している物質であり、後者は一つのまとまりをもったものとして認識される一形態です。例えば、ガラスなどのモノ(非生命)は、「質料」と「形相」は一致します。しかし、イキモノ(生命)は、「質料」と「形相」の同一性は当てはまりません。なぜなら、「代謝Stoffwechsel」するからです。ここでいう代謝には、摂食や発汗、排泄、呼吸など、いわゆる生命維持活動のことです。外側のものを内側に取り込み、一方で、内側のものを外側に排出します。質料とは、生命の身体を構成する諸物質であり、形相とは、生命がもつまとまりのある形です。その反面、生命には「行為しない自由はない」とし、それは死を意味するからです。生命の本質とは「困窮する自由」と言えます。

未来世代への責任を考える場合に重要なのは、未来世代に対してよりよい状態を贈ることではなく、未来世代が喪失するという最悪の事態を避けることです。それには、恐怖に基づく発見術という指針を用います。ヨナスは、未来世代への責任を果たすためには、私たちが抱きうる「恐怖」を手がかりとして、未来世代にとって最悪の事態を同定し、それが実現しないように行為することが必要になります。最悪の事態を同定する方法が「恐怖」という感情であり、科学的な予測ではないというのが、ポイントです。

かつては自然はおそろしいものという畏敬の念を抱いてきた人間ですが、人新世(近現代)では、人間が自然を支配し、破壊するパワーを科学と技術により持ち始めました。人間はおそろしいものと言えます。人間はその高度な自由を用いて、科学技術文明を発達させ、あらゆる生物種のなかで突出して巨大な力を手にしました。この世界において神は無力です。ヨナスの神学論により示唆する「神の像」としてのこの世界は、人間による不確かな管理に委ねられることになります。

ヨナスは、神が宇宙を創造したということと、神が無力であることの矛盾を哲学的に解決しようとしました。神はこの宇宙を創造したものの、その宇宙を意のままに動かすことはできず、反対に、この宇宙の出来事に依存するようになりました。偶然に誕生した生命は地球上で長い時間をかけて進化を遂げていきます。しかし、生物種の進化の過程で、人間が出現することによって、状況は一変します。

行為の不死性Unsterblichkeit der Tatenとは、人間の行為は記録されたり、語り継がれたりすることを超えた、この世界に記憶され続けるというものです。「神様は全てお見通し」という感じでしょうか。人間の行為が不死性をもち、その記憶がこの世界から永遠に失われません。

ヨナスの悪と記憶に関する考え方は重要です。無責任な人間たちが、自分の都合の悪い事実を意図的に忘却し、実際に起きた悪がなかったことにされ、殺された人々が最初から存在しなかったことにされてしまします。同じ過ちを繰り返さない責任は、過去への責任ではなく、あくまで未来への責任です。ヨナスは神が人間を救うのではなく、人間が神を救わなければならないと主張しています。人間が引き起こす悪は、それによって神の像を傷つけ、この世界に永遠に記憶されます。

以下感想です。インド哲学では、現世や過世での個人の経験が意識下に刻み込まれたものをサムスカーラと言います。また、行為の応報をカルマと言います。サムサーラ(輪廻)から抜け出せない限りは、サムスカーラやカルマの影響を受け続けます。ヨナスの悪や記憶の考え方との相同性について議論できるほどの知識は、私にはありませんが、動物を含め他者を傷つけてはならないという教えをインド哲学ではアヒンサーと言いますが、ヨナスが世界は神の似姿として傷つけてはならないとする点とは親和性を感じます。また両者の記憶が不滅であるという点も似た点があるように思います。ただし、インド哲学では輪廻から脱出出来ずに来世があることは、ある意味不幸ですが、ヨナスは誕生自体には、どのように考えていたのか、気になるところです。ヨナスの研究したグノーシス派の考えでは、人間を善なる神に由来するものとして位置づけながら、悪しき神によって作られた世界に生まれ落ちているとされます。非本来的な状況に陥っている人間が救済されるために必要なのは、自分自身の本来の姿を認識し、この宇宙から解放されることであると言われます。悪い世界という意味では、カリ・ユガとも似ているような気がしますし、本来の自分と言われると、真我やプルシャ、アートマンも連想します。宇宙や世界は、ブラフマン(梵)でしょうか。

近現代の社会では、社会と個人の契約により人間が規定され、他の動物との差別化が成立し、人間は法律をもとに権利や活動の自由が保証されたり、ルールにより様々な行為が制限されています。ヨナスの哲学はもっとプリミティブで、インド=ヨーロッパ語族の宗教や哲学とも親和性を感じますし、神との契約でもなく、世界を神として感情や感性で捉えることで、人間のパワーによる自然の破壊や生命体の改変行為に危険性を抱かせ、それらを自制し、次世代へ受け継いでいくことを現世代の責任として考えます。ただし、ハイデガー存在論の影響もあり、他者からの呼びかけや、他者への配慮といった存在間でのつながりの中で、気づきが促されるところがあり、カント的な内なる道徳律とは違ったものです。未だ来ない世界や存在との関係における行為の規定というのは、やはり感性に基づいた神秘的かつ宗教的な色合いが強くなるのかも知れません。ただし、一般化していくには、道徳律や功利主義的な議論が必要になってくるのかも知れません。