Books: 剥き出しの実存〜森岡正博「宗教なき時代を生きるために」再読して

実存主義なんて言葉は、古臭く、いまでは流行らない言葉なのかもしれません。第二次世界大戦終結後まもなく、フランスの哲学者サルトルが、発表した「実存は本質に先立つ」の言葉の通り、欧米では宗教(キリスト教)や国家(軍備・徴兵)という大きな組織が、個人に「あーだ、こーだ」って大義名分を押し付けている状況になって、それに対するカウンターカルチャーの意味合いが強いです。

ただ、たとえ先進国で宗教の求心力が衰え、戦争が少なくなったとしても、自分の実存(そもそも私って?、大義名分や人生の目的って何?なんで生まれてきて、死んでいくの?)について悩む人はいつの時代も一定の数いるようです。国を問わず、時代を問わず、そういうことに悩む人はいるでしょう。

日本であれば、かつては、仏教のお坊さんがお説教でそういうお話をしてくれたり、問いかけに答えてくれたりしたそうですが(?)、現在では、真剣に取り合ってくれる人いるのかな?って感じです。

ふとそんな時に、もし向き合ってくれる人がいたら、導いてくれる人がいたら、どうでしょうか?相談しようかな?と思うかもしれません。 

オウム真理教に入ったエリートの若者たちは、真剣に実存や生死の問題に向かい合っていたのかもしれません。 オウム事件の哲学的考察については、森岡正博著「宗教なき時代を生きるために」をご参考にしてください。本書は私の愛読書のひとつです。

宗教なき時代を生きるために

宗教なき時代を生きるために

 

ただ、私は森岡さんのいう「宗教」とは、広義の意味での宗教、すなわち生死や人生の意義を根本から問う、普遍的問い、哲学的問いかけ、すなわち宗教の本質的な部分のことを指しています。「〜教の信者」であるという形式的な意味ではありません。

本書は、森岡さんご本人が、宗教なき時代に、戦争もなく、物質的に豊かになった時代に産まれ落ちた私は、具体的にどう生き抜いていけばいいのかを哲学的に思考した内容であり、「自分はこうするんだ」と誓いを立てて歩みだした処女作的な哲学書です。これ以降、森岡さんはいまでも「本質的な問題を棚上げにせず、自分で考える哲学」を実践されています。

したがって、読者に「こうすればいいですよ」と具体例が提示されているわけではなく、森岡さんのコピーをする必要はなく(それこそ棚上げでしょう)、「自分なりの生き方を実践すること」として読み解くことが重要だと私は解釈しています。

仕事でも、ハタ・ヨーガでも、アーサナ坐禅でも、瞑想でも、プラーナヤーマでも、チャンティングでも、水泳でも、英語翻訳でも、トレッキングでも、人それぞれ何をするにしても、目標を持って、自分なりのタスクを課して実践するなら、具体的にはなんでもいいんじゃないかと思います。森岡さんの場合は、ご自身を研究対象に選んだのであり、人それぞれ対象が何であれ、自分の頭と身体とマインドを使って考え抜き、実践し続けることは、すなわち、「対象から逃げずに、向かいあうこと」であり、ゆくゆくは「自分と向かい合っている」ことに気がつくのかもしれません。その時、それを神と呼ぶか、ブラフマンと呼ぶか、悟りと呼ぶか、宇宙と呼ぶか、光と呼ぶか、愛と呼ぶかはわかりません。おそらく何事も一朝一夕では自分のものにはできないでしょう。3年、5年、10年と時を積み重ねることで、自分という実存が見えてくるのかもしれません。