Books: 人間の建設 / 小林秀雄・岡 潔(1965)

 

ピカソは無明を描いている
無明(むみょう)と言うのは、釈迦が説いた考え方で、人間は自己中心的に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能のことです。西洋では、それを自我と言ってますが、仏教では小我と言います。ピカソの絵は無明からくるものであり、男女関係の醜い面だけしか描いていないと言う。

数学には感情的な同意が必要である
数学の体系に矛盾がないと言うためには、まず知的に矛盾がないと言うことを証明し、しかしそれだけでは足りない、銘々の数学者が皆その結果に満足できるという感情的な同意を表示しなければ、数学だとは言えない、と岡潔は語ります。

ベルグソンの時間に関する思索の根底には感情がある
アインシュタインの時間の観念と、ベルグソンの時間の観念が違っていた。それはニュートン以降の物理的時間と、素朴な心にある心理的な時間との違いであった。

ドストエフスキーは無明の達人であった
ドストエフスキーは、初めに方向が決まって、死ぬまで他のことはしていない。他の作家も、20代で方向が決まって、それからあとは他のことは考えていない。トルストイドストエフスキーは対照的なところがあり、トルストイは例えるなら一目で端まで見渡せる町に似ているが、ドストエフスキーは次のページを予測することができない。ドストエフスキーは、病身で複雑な都会人であり、強いて言うなら、悪漢であった。小我を自分と思うことができ、そこに迷い、しかし、自分の中に善と悪の両極を兼ね備えていた。

誰でもめいめいがみんな自分の歴史を持っている
オギャアと生まれてからの歴史は、どうしたって背負っている。伝統を否定しようと、民族を否定しようと構わない。やっぱり記憶が蘇るということがある。私になんからの感動を与えたりするということもまた、私の意志ではない。記憶によるものである。記憶が幼時の懐かしさに連れていく。言葉が発生する原始状態は、誰の心のなかにも、どんな文明人の精神の中にも持続している。松尾芭蕉はそれを不易(不変)と読んだのではないだろうか。あまり人為的なことをやっていますと、人間は弱る。弱るから、記憶(過去)へ帰ろうということが起こってくる。

日本人の長所の一つは、「神風」のごとく死ねること
欧米人には、帰するがごとしという死に方はできない。数学の研究に没頭しているときは、自分の身体、感情、意欲という意識は全くない、と岡潔は語ります。「神風」で死んだ若者たちは、小我を自分だと思っている限り決してできない。欧米人は小我を自分だとしか思えない。いつも無明が働いているから、真の無差別智、つまり純粋直観が働かない。