Books: 岸和田だんじり祭 だんじり若頭日記 / 江 弘毅(2005)

 

伝統ある「お祭り」の現場において主体(主役)となっている人で、文才のある人が日記を書いたとしたら、こういう内容になるんだと勉強になりました。元々は、内田樹氏の個人サイト(管理人)で連載していたものを書籍化したものだそうです。日記なので、江弘毅氏は、自由に筆を走らせたのかと思いきや、ウェブ公開前に管理人の内田樹氏が一度閲覧するという約束があったようで、江弘毅氏もそれが無意識のうちに、もう一人の自分による査読(チェック)になっていたのかもしれません。

そうはいうものの、中身はなかなか自由奔放な筆の走り様です。お祭りの活気が伝わってくるような粋な内容で、「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」というけれど、「泉州の男に裏表なし」という感じで、一本気な男前なお人柄が伝わってきます。

「あんた、ヤンキーか?」と質問されて、あからさまに怒る人は、関西とりわけ大阪ミナミや岸和田といった街では、周りとあまりコミュニカティヴかつ愉快にやって来なかったのではないか、ということを言及されています。

本書で言われる「ヤンキー」の定義は、なかなか複雑で、反社会的な不良でも、はみ出し者・一匹狼でもなく、ファッション的にヤンキーぽく見せている「ツッパった」若者でもないようです。

あえて定義するなら、「地元志向が強く、かつそのコミュニティの中でコミュニカティヴに上手くやっていて、周りからも”いい人”と評価される。一方で、その地域の良さを客観的にも見れており、主観としても馬鹿正直に地元愛が強い、愚直な人間」となるでしょうか。

その意味では、なかなか器が大きくないとなれないヤンキーです。もはやヤンキーではないでしょう。立派な社会人、組織の人間です。ただ、そういった人が中心となって、岸和田の祭を支え、動かしているという点は、さすが知名度の高い祭だけあるのだなと思いました。

私も、大阪南部の堺市羽曳野市に住んだことはあって、その時は、兵庫の南西部の播磨地方に雰囲気が近いなと感じました。岸和田の「だんじり祭り」や堺の布団太鼓の祭り、それと播磨の「灘のけんか祭」に代表される太鼓屋台の練り合わせが魅力の祭りにも、近いものも感じますし、地理的な条件も、播磨にとっての都会の「神戸」と、岸和田にとっての大阪北部(キタ)も位置付けが似ています。伝統的な生業としても、漁業が盛んであり、近現代では工業が発達したのも似ています。

田舎者の私としましても、結構、気にするポイントが近くて親近感がありました。都会へのアクセスがいい田舎の出身者というのは、都会に憧れが強く、その反面、自身が田舎者であることを必要以上に意識してしまいます。本書でも、痛いほどそれが感じられました。

しかし、そういうタイプの田舎者の方が、都会での遊び方の要点を押さえていたり、一方で、地元への誇り(原点回帰)が強かったりもするようです。都会を意識したことのある「田舎者」は、自己への自意識が強くなり、免疫のようなものができるという。逆に言えば、都会に住んでいても「いなかもん」はいるということになります。ここで言われる「いなかもん」は、端的に言えば、「世間知らず」ということでしょうか。どこの都会にも田舎にもその土地独自のものがあり、旅行をすると、その地方の良さが見えてきて、美味しいものを食べたり、買い物をしたりします。難しく言うと、「地方性を消費する」というのでしょうか。このように人々の欲望は、どこの人でも持ちうるのですが、だからこそ、その欲望につけ込んだ商売も、かなしいかな、成立してしまいます。足元を見たやり方です。そういうことは、本書著者は嫌っています。

純粋に祭りが好きで、愚直にその地域の人たちと向かい合い、力を合わせて、いい祭りにする。そういう文化が残る田舎がなくなってほしくないです。