Books: 世界の中のラフカディオ・ハーン / 平川祐弘(編著)(1994)

 

海外の研究者による神道の評価は、二つの流れがあります。サトウ、チェンバレン、アストンと続く日本アジア協会会員の学術研究。もう一方は、ハーン、タウト、マルローという経歴も国籍も時代も異にする芸術家の孤立した見方です。

神道は教理と倫理を欠木、聖書すら存在しない」というのは、サトウ、チェンバレン、アストンだけでなく、日本アジア協会の人々の認識でした。明治のイギリス人研究者3人は、まず上代神道文献の翻訳から神道研究に入ってゆきました。日本における「聖書」、神道における「バイブル」を求めていた彼らは大いに失望しました。「古事記」や「日本書紀」に書かれていたのは、互いに矛盾する事実や空想の断片であり、伝説や祈りや歌謡でした。言葉によって神に辿り着こうとする彼らの試みは、文献学的方法というよりはキリスト教的方法であったのかもしれません。結果、神道研究においては、彼らの視野を極端に狭めてしまし、彼らの日本史や日本語の知識は、むしろ神道には「何がないか」を論うのに役立つばかりでした。

一方、芸術家的アプローチをおこなったハーン、タウト、マルローにおいては、日本語が読めませんでした。ゆえに、言葉や論理だけで神道を理解しようという態度とは、そもそも無縁でした。ただし、言葉以外によるもの、すなわち、感性や直感によって正面から向かいました。形あるものや命あるものを謙虚に見つめ、そこから日本人の信仰を感じ取りました。彼らは、神社を見つめ、森や滝を見つめ、それらを崇める人々を見つめました。

ハーンは、特に、人や動物はもちろん、非情の木石にまで霊力を認め、神に祀るという、心の優しさーとりわけ死者を神として崇める祖霊崇拝に、惹かれたと言われます。

ドイツ人の建築家、タウトにとっては、伊勢に代表される自然・簡素・清浄の美学こそが、神道でした。

フランス人の作家・冒険家・政治家、マルローは一条の滝や一本の杉の古木を持って神と人を繋ぐ異質な精神に神道の実在を感じ取りました。

以下、所感です。日本の気候は穏やかというのは確かにそういった印象は持たれがちです。しかし、地震や台風、雷、洪水、大雪などを考えると、自然は怖いものという災害の記憶も日本人には焼き付いていると思います。

島国なので、外敵の侵入というのは少ないかも知れませんが、突然に地面が揺れる、海が荒れる、川が氾濫するといった昨日までの様子と一変した顔を出すのも日本の自然の特徴だと思います。したがって、神様のご機嫌が悪くなった、祟りだと考えるのも不自然ではない心理かと思います。日本の自然は川が山から海までの距離が短いだけに、すぐに氾濫してきたようです。まるで気分屋の龍が住んでいるのかと思うほどです。