Films: Sound of Metal〜聞こえるということ〜(2019)

 

久しぶりにガツンと来る映画を見た気がします。ドラムを叩いている時の主人公ルーベンも、聴覚障害者のコミュニティで献身的に働くルーベンも、恋人のルーと再会するために機材とキャンピングカー(RV)を売り払い、人工聴覚器のインプラント手術を受けるルーベンも、最後のシーンで、補聴器を外し、無音の世界に戻ったルーベンもどのルーベンも素晴らしく人間味がありました。

もしかすれば、ドラッグに溺れ、ノイジーな音楽を奏でる若者の一例としてスポットを当て、彼らの更生や改心の必要性を伝えようとする説教染みた内容とも捉えることができますが、物語を通じて音の質感の変化を繊細に演出していく展開にこそ言葉では表現できない深いメッセージを感じました。

冒頭のバンドのエレキやドラムのノイズと、人工聴覚器をインプラントしたルーベンが聞いた機械的な話し声や周囲の物音が、どちらもノイズに満ちた音であることが、特に印象的です。

自分が奏でるノイズは、心の奥底の叫びであるのに対して、補聴器から聞こえてくる音は、本当のノイズでしかなく、ルーベンは、結果的には、補聴器を外すのですが、音というのは、彼女のルーと繋がりを持つためのツールであっただけなのかもしれません。バンドでヴォーカルとギターを担当する彼女のルーもまた家庭に問題を抱えており、母親を自殺で亡くしています。ルーは父を憎み、ルーベンと車上生活をしながらバンドのツアーをしていました。結局は、ルーベンが施設でリハビリを受けることになり、バンドもできなくなり、父親の元に帰るのですが、このことを父親は娘が帰ってきたことで、彼氏のルーベンに感謝をします。

ルーは、バンド生活には戻れなくなってしまったことを聴覚を取り戻したルーベンは悟ります。

「他人の出すノイズは、耳障り。」しかし、「自分の出す音、自分が聴いている音楽は心地よい」という、人間には利己的な一面がありそうです。この映画が言いたかったことは、この辺りのことではないと思いますが、自らが選び取る「音」と、不本意にも浴びせられる「音」のギャップは、とても隔たりがありそうです。かつての自然な音が欲しくてももう2度と手に入らない、手に入るのは金属的なノイズまじりの話し声だけ。しかし、今までの自分は、そういったノイズを奏でてきた。この辺のところが、カルマと言いますか、残酷なストーリーと思います。

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