新渡戸稲造の『武士道』

武士道 (岩波文庫 青118-1)


新渡戸稲造の『武士道』の第十二章「自殺および復仇の制度」と第十四章「婦人の教育および地位」を再度読み直しました。切腹について執拗なまでにこだわって描いているのには圧倒されます。


しかし、以前から、「武士道」ってなに?と思っていました。Wikipediaやいくつかの書籍・論文で調べるうちに、新渡戸稲造の『武士道』はかなり特殊な形であることを感じ始めました。


現在では新渡戸は「武士道」についてはほとんど知らなかったというのが定説になっています。当時としてはかなりの国際人であり、キリスト教徒でもあった新渡戸は、西洋人に日本の独自の道徳観を示そうとして本書を書いたと言われます。欧米列国と肩を並べるだけの精神的土壌が日本にもあると主張しようとしたとも解釈されています。


これも新渡戸が編んだひとつの物語(フィクション)といえばそうなのかもしれません。


しかし、「仁」と「名誉」についてもしっかり言及されており、この辺からも当時の軍国主義を内部から賛美するものではないことがわかります。ところが、海外では日本のイメージとして一人歩きしてしまった嫌いがあるようです。それが逆輸入されて、少し前に日本でも流行ったりしました。


自分は、武士道に興味があるというより新渡戸稲造の思想と行動に興味があります。内村鑑三もそうなのですが、なぜ日本のキリスト者たちが武士道や愛国心や国防や開発に自ら先頭をきって論陣を張らなければならなかったのか、これについて色々と考えさせられます。
また、当時の日本のキリスト者は、私学校の創設者あるいは教育者として尽力した人が多いのも事実です。


新渡戸の『武士道』を読んで感じることは、「〜教徒だから」、「武士だから」、「すごい」というのではなく、よりよい社会のためには、道徳や宗教といった精神的な素養が大切なのではと再認識させられることです。


もちろん、精神的教育というのは、諸刃の剣であると思います。戦時中の日本のように、軍国としての秩序を保つために利用されることもありえます。


『武士道』、というより、『新渡戸稲造的精神』。確かに、今の日本では忘れ去られつつあるもののひとつでしょう。