パーソン論とはどのような倫理か─シンガーを中心に─ / 陀安広二(2004)

http://www.eth.med.osaka-u.ac.jp/OJ3-2/tayasu.pdf


生命倫理環境倫理を勉強する上で倫理学ピーター・シンガーの論理を理解することは、非常に大切です。また、人工妊娠中絶や安楽死といったデリケートな現実的問題に対して、極めて実践的で積極的な主張を展開している「パーソン論」とは、専ら「人格とは何か?」という問いをめぐる議論のことを指します。この問いの答え方次第で、胎児、植物状態脳死状態の患者などをどう取り扱うかが変わりえます。しかし、実践的で積極的であるがゆえに、世論から感情的な批判を受けることもあります。


この論文を読むことにより、パーソン論について理解を深めようと思います。また、この論文の重要な論点のひとつとして、障害新生児の処遇に影響する両親の選好を例に呈される、過剰な配慮の倫理的価値の把握に関する問題があり、この点については、今後パーソン論について考える上で念頭におきたい観点だと思いました。


さて、パーソン論と一口に言っても、さまざまな形がありますが、人格であるかどうかに着目し、それを倫理的価値基準に据えるというスタンスは共通しています。ここではシンガーの『実践の倫理』 に沿って論が展開されています。


シンガーは、『実践の倫理』で、「人間」という語の意味を、「ホモ・サピエンスという種の構成員」という生物学的意味と「理性的で自己意識のある存在」という人格的意味とに区別しています。


すなわち、ホモ・サピエンスという種の構成員」を他の種の生命に対して優遇することは、「種差別」にすぎず、道徳的に見て何の根拠もない。道徳的に意味があるのは、「理性的で自己意識のある存在」としての人格(person)を尊重することであり、そうした人格であるなら、ホモ・サピエンスという種であろうとなかろうと、価値ある存在として尊重する必要がある、とシンガーは述べています。


人格であるということがなぜ価値ある存在だと言えるのか。シンガーは四つの議論を出しています。


1.古典的功利主義の議論
人格が価値ある存在として扱われなければ、他の人格の幸福の減少をまねくからというものです。すなわち、人格が尊重される価値をもつということは、もし尊重されなければ結果として他の人格の幸福が減少するという「間接的根拠」によって説明されます。


2.選好功利主義の議論
人格は生き続けたいという未来志向的な選好をもつからというものです。すなわち、人格を殺すことは、人格の生き続けたいという選好、おそらく人格のもつあらゆる選好のうちでもっとも基本的な選好を侵害するがゆえに、不正であるということです。


3.トゥーリーの議論
人格は生存する権利をもつからというものです。すなわち、人格を殺すことが不正であるのは人格のもつ生存する権利を侵害するからであり、権利の侵害が起こるのは人格が生存する欲求をもつからだということになります。


4.自律尊重という伝統的な道徳原理に関する議論
人格は生死を自分で選択する能力をもち、そうした人格を殺すことは人格の自律を尊重していないことになり、人格は尊重される価値をもちえます。


本論文では、シンガーの人格概念とは、「理性的で自己意識のある存在」とほぼ同義であると指摘されています。生存する資格があるかどうかの基準は、理性と自己意識の有無に求められます。したがって、人格ではない存在として胎児と新生児がまず挙げられ、事故などで不可逆的に意識を失った人間もこの範疇に入ることになります。


シンガーは、理性と自己意識をもたない存在に対して、「生存する資格」を認めないのですが、まったく道徳的配慮の必要がないと考えているわけではありません。理性や自己意識をもたないとしても、その存在が意識をもつ可能性はあるからです。すなわち、人格のもつ、ある意味で絶対的な価値に対して、意識をもつ存在はその感覚能力に応じて相対的な価値をもちます。ただし、その価値は、生命を奪うことそのものを禁ずるほど大きくはないというのです。すなわち、意識の程度に応じてその扱い方を改善したり、より多くの同種の生命を生み出すことで総量として快適さを実現すればよいとされます。


シンガーは、人間には等しく正義の感覚が与えられているという事実から人間の平等を説明しようとしても、その感覚の程度は人によって異なり、現実には平等は帰結しないと考えます。「すべての人間は平等である」という基本原理にもとづけば、能力の差、性別、人種など、人間がそれぞれ異なっているという「自然的特徴」を理由にして、配慮の程度を変えてはならないことになります。これに対し、シンガーは、特定の誰かではなく、行為によって影響を受ける人間全員の利益を等しく考慮することが平等の原理であると考えます。能力の違いによって、これらの利益に対する配慮の違いがあってはならないと考えます。


シンガーのパーソン論に従えば、人格は理性と自己意識をもつがゆえに特別な価値をもち、生存する資格をもつ反面、人格でないものは理性と自己意識を欠くがゆえに生存する資格をもたないとされます。ここで、論文著者は、理性も自己意識も、能力や性別と同様に、「自然的特徴」ないし「事実的特性」の一つだと考えられるのではないだろうかと疑問を呈しています。すなわち、シンガーは人格として扱うための「内在的価値」がその存在にあるかどうかだと述べているが、「内在的価値」という発想そのものが、「利益に対する平等な配慮」が拒否するところの事実に基づいた配慮の差別に結びつくことにはならないかと述べています。これに対して、シンガーは、理性と自己意識が欠如している場合、人格としての配慮が目指すはずの利益の享受そのものが不可能であり、利益に対する配慮そのものが無意味になるからだと答えうるかもしれません。


ところで、シンガーは、ある利益に対する配慮が有意味であるためには配慮の受け手が当の利益をもつものであるかどうかを問う必要があると考えます。シンガーによれば、胎児や新生児は、非パーソンであるから、人格としての配慮を受ける資格をもたないし、胎児や新生児が非パーソンである限り、その生命を奪うこと自体は不正ではないということになります。しかし、だからといって、胎児や新生児の生命が軽く扱われてよいというわけではないとシンガーは述べます。第一に、快苦の感覚や意識をもち得る限り、胎児や新生児はできるだけ苦痛を感じないように扱われる必要があります。第二に、胎児や新生児には人格として配慮するための「内在的価値」は欠如しているが、両親の利益に注目すれば、まだ子どもをもちたくない、あるいは障害新生児を育てたくないという両親の意向を尊重することによって、両親の選好を満たし、彼らの利益を実現することができます。シンガーは、こうした点が考慮される限り胎児や新生児の生命が過度に軽視されることはないと考えます。


さらに、論文著者は、パーソン論の依拠するパーソンと非パーソンに基づいた判断が、倫理的事象の領域を狭めてしまう可能性があるのではないだろうかと危惧しています。人間の動物に対する扱いについては、動物が快苦の感覚をもつならばそれに配慮した扱いが必要になり、ある種の動物が自己意識をもち得るならば、人間に劣らぬ配慮が必要になるかもしれません。しかし、自己意識はないが快苦の感覚をもつ存在に対する人格としての配慮は、それがもち得る利益の範囲を超えたものである限り、整合的ではなく、道徳的に見てあまり意味のないものとなるだろうと指摘しています。ある利益に対する過剰な配慮は、パーソン論の枠組みでは、まったく無意味ではないにせよ、少なくとも二次的な価値しかもたないものとなってしまいます。


ここで著者は、過剰な配慮として、水子供養、痴呆性老人に対するケア、遺体に対する敬意、コンパニオン・アニマルへの愛情を具体例として挙げ、それがいかに過剰なものであり、対象のもち得る利益との整合性のないものだとしても、こうした配慮こそが「道徳の起源」である可能性を物語ってはいないかと補足的に述べています。


たとえば、障害新生児の処遇に影響する両親の選好について考えた場合、両親自身がどのような利益をもつか、という選考もある一方で、彼ら自身の利益ではなく、人格的存在として捉えられた新生児自身の利益に向けられる選考もあります。両親が新生児を人格として現に扱うことが行為選択の動機になっている限り、その過剰な配慮は倫理的に重要な意味をもつのであって、単に「間接的な」あるいは「付帯的な」次元のものとは言えないと著者は批判を加えます。


シンガーのパーソン論が要求する〈ある利益とそれに対する配慮の整合性〉は、このような過剰な配慮の倫理的価値の把握に関して問題を残すのであると締めくくられています。